五十四:激闘
床を蹴りつけ、一瞬のうちに獣たちが肉薄する。
両者の拳が互いの頬を殴りつける。
その反動で距離を取るや、跳び上がった男の革靴が吾妻の胸板を蹴りつけた。
衝撃に吾妻の体が押し込まれるが、しかし両脚を踏ん張って耐えると、伸ばされたその足を両腕で抱え込む。
男の足を抱えたままに身を捻り、己ごと倒れこむと、相手の体を床へと叩きつける。
激しい振動が床を揺らしたが、しかし両手で衝撃を殺した男が倒れた体勢から鋭い蹴りを繰り出した。とっさに首を上げた吾妻の顎先を靴底が掠める。
仰け反りながら、吾妻が頭上で両手を組んだ。追撃のため飛びかかってきた男に、岩と化した大きな拳を振り下ろす。
拳が男の頭頂部を正確に捉える。男の視界がぐらりと歪む。
頭を抑え、ふらつきながらも膝は曲げない男を見ながら、呆れたように吾妻がこぼした。
「……硬いなあ」
切れた唇の端を親指で拭い、吾妻がひらひらと両手を振る。殴りつけた拳が痛みに痺れるほど、男の体は頑丈だった。
しかしそれは男も同じこと。鍛え抜かれた吾妻の肉体に、わずかな驚愕を見せていた。
息を整え、腰を落とした吾妻が我流の構えを取る。
対する男は、心持ち左足を前に出し、胸を開き、上半身を正面に向ける構えを見せた。その構えを見た吾妻が片眉を上げる。
「お前さん……まさか、警察官かい」
堂に入った柔術の構えを見せる男が、今度こそ驚愕に目を見開く。油断なく構えたまま、問う。
「……なぜそう思った」
「うちの奴らもそうだがね、血に逸る奴ってえのは大概が拳打主体の武術をやりたがる。理由なく柔術を選ぶなんてやつァ、よほどの物好きだ。それに、サーベルを使っていた時にも、足の動きは摺り足だった。剣道熟練者の動きだ」
柔道と剣道を極め、さらには拳銃の扱いにも慣れた者。そうなれば自ずと答えは見える。
そう続ける吾妻に、ふん、と男が鼻を鳴らした。
「あの骨董屋といい、あんたといい……皆が皆揃って探偵気取りか。愛読書はシャーロック・ホームズか?」
「こいつァいい。お前さんの口から冗談が聞けるとは思わなかったよ」
軽口を叩きながら、しかし両者の目は真剣そのものだ。
ちり、と空気が張り詰める。その緊張感だけで柔な肌なら傷付いてさえしまいそうなほどに。
高まった緊張感が最高潮に達した瞬間、二人は再び交錯した。
ただし今度は、男の狙いは最初から吾妻の襟だ。
吾妻も恵まれた体躯の持ち主だが、しかし男のほうが一回り体格に優れている。とりわけその両手は大きく、力強い。
太く、節くれ立ったその指に捕まろうものなら一巻の終わり――そう感じさせる威圧感があった。
襟を取ろうと伸ばされた腕の外側に回り込み、男の肩の付け根に強烈な打撃を叩き込む。しかし硬い。
男は数歩たたらを踏んだが、腰を落とすと振り返りざまに足払いを放った。
凶悪な手元に全神経を集中させていたために、吾妻の反応が一瞬遅れる。その隙が命取りだった。
脛を強かに蹴られて、今度は吾妻がたたらを踏んだ。その襟を男の右手が捉える。
足に力を入れて踏み留まると、吾妻は男の欠けた右手を続けざまに拳で打った。激痛に、男が怒りの絶叫を上げる。
堪らず傷付いた右手を引くも、今度は左手が襟を掴んだ。瞬間、恐ろしい腕力に引っ張られ、吾妻の巨体が宙に浮く。
片手とは思えない勢いで投げ飛ばされ、吾妻は背から床に叩きつけられた。
激しい衝撃で息がつまり、酸素を求めて喉が喘ぐ。
すぐさま駆け寄った男は、両手を組んで肘を尖らせると、全体重を乗せたそれを吾妻の胸元に叩き込んだ。
めきり、と嫌な音が吾妻の全身を走る。耐え難い激痛がその後を追った。震える吾妻の黒眼が天頂を向く。
痙攣する吾妻の喉に、男の両手が突き込まれた。逞しい両手が襟巻きの上から吾妻の喉を締め上げる。
狂喜だ。男の顔を狂喜が彩っていた。
抑え切れない興奮に歯を噛み鳴らし、口から泡を吹き、男が恍惚の表情を見せる。
拘束を引き剥がそうともがくも、男の両手は鋼のように動かない。肩、肘に左右の拳を叩き込むが、しかし分厚い筋肉がそれを阻む。長い足を暴れさせても、胸元にのしかかる男には届かなかった。
吾妻の視界が激しく明滅する。空気を断たれた脳内に、熱くなった血が今にも噴きこぼれそうだ。
耳鳴りがする。舌が痺れる。
顔が赤らみ、生理的な涙が目元を濡らす。
男を殴りつける拳から、次第に力が抜けていく……
ふと、右の袂の内に何か冷やりとするものを感じた。
その冷たさが、薄れゆく吾妻の意識を寸でのところで繋ぎ止める。
右手を袂に引っ込め、吾妻は冷たさの正体を探った。
その正体に気付いた途端、血だらけの吾妻の唇が無意識のうちに吊り上がる。
死に体の男が突如浮かべた不敵な笑みに、男の狂喜がわずかに曇る。
直後、男のこめかみを痛烈な一撃が襲った。
激しい痛みと衝撃に、男が吾妻の上から転がり落ちる。思わずこめかみを押さえた手の上から、吾妻の拳が唸りを上げて叩き込まれた。
吾妻は背をつけたまま足を振り上げると、腰を捻って長い脚を独楽のように回転させた。ぎゅるりと風を切る踵が、男の顎を蹴り抜ける。
血と共に胃袋の中身まで吐き出しながら、男の巨体が吹き飛んだ。
何度も脳を激しく揺さぶられ、男は立つこともままならない。吐瀉物にまみれた床に両手足をつき、立ち上がろうとしては転び、いたずらにシャツを汚していく。酸い臭気が鼻を突く。
吾妻は反対側の床へと転がると、仰向けのまま荒い呼吸を繰り返した。厚い胸板が隆起する。ようやく空気を得た喉が妙な音を立てる。
酸素を断たれた直後に無茶な動きを繰り出したせいで、身体中が痺れ、震えていた。
戦慄く腕をなんとか持ち上げると、吾妻は脂汗の浮いた顔を拭った。
震えるその手に握られているのは、蛇川愛用の短刀だった。
「妙な、ところで、助けられちまったな……」
悶える男を横目で見ながら、吾妻が激しく息をつく。膝に手を当ててうっつら立ち上がると、異形のモノと対峙する蛇川を振り向いた。
「忘れ物だぞ、相棒……ッ!!」
掠れた声は小さく、とても届くとは思えなかったが、しかし蛇川はこちらを振り返った。
髪を振り乱し、血まみれで喘ぐ吾妻の姿に切れ長の目が大きく見開かれる。しかしわずかな間の後、その目がゆるく弧を描いた。色みの薄い唇の両端が吊り上がる。
小憎らしくも見慣れたその顔に向けて、赤茶の短刀が放物線を描いて飛んだ。