五十一:激闘
寿太郎の咆哮が別荘内に轟き、銃を撃つ男達の手がしばし止まった。
一種独特の震えを伴う叫び声だ。
亡者にしか出し得ない、この世に生ける者の肝を本能的に震わせる声。
覚えのある叫び声に、吾妻とギンだけが一寸早く正気を取り戻す。すかさずギンの南部大拳乙型が火を噴き、硬直していた敵の眉間を貫いた。
すぐさま物陰に隠れ、手早く次の弾を装填しながら、ギンは吾妻を伺った。
「若頭、今のは……」
「ああ!」
抜き身の日本刀を構えた吾妻が、一足飛びに物陰を飛び出す。
その横を背後から弾丸が通り抜け、今しも銃を構えようとした敵の喉元に命中した。
冷酷無比な射撃と、悍ましい声の恐怖。未だ体を強張らせていた安達の私兵は脆かった。
ある者は指を斬り飛ばされて拳銃を取り落とし、ある者は喉笛を貫かれて絶命する。
瞬く間に、一帯の敵が全て斬られるなり撃たれるなりして行動不能に陥った。吾妻は日本刀を振るって血を飛ばすと、後続の若衆らを呼びつけた。
「半分は俺に続け! 残り半分は残党を狩りながら谷田部を探せっ! 野郎の顔は覚えていやがるだろうな!」
おうっと野太い声がそれに応える。事前に谷田部とその女房の写真を全組員が目に焼き付けていた。
「若頭もお気をつけて!」
吾妻は片手を上げてそれに応える。別れた一手が荒々しく足音を鳴らして駆け去っていく。すぐにその先でけたたましい銃声が鳴り響いた。
屈み込んだ吾妻は、指を根元から斬られて震える男の襟首を掴み、片手で容赦なく捻り上げた。襟が詰まり、男が苦しげな声を漏らす。
「先般から客人が来ているはずだ。どこにいる?」
「……し、知らんな……」
その言葉尻が悲鳴に変わる。男の左眼に吾妻が親指を突き込んだのだ。
激痛に絶叫する男にも、しかし吾妻は動じない。ただ淡々と言葉を繋ぐ。
「完全な闇に放り込まれたいか? もう一度だけ訊く。客人はどこだ」
黒の革手袋が床に落ちる。
蛇川の両手の目玉が寿太郎を睨む。
音が鳴るほど強く握り締めた蛇川の拳が、寿太郎の頬を殴り抜く。
しかし痛みに呻きを上げたのは蛇川の方だった。寿太郎の腕に巻き付いたままの千切れた鎖が、風を切って蛇川の鎖骨に直撃したのだ。
あまりの衝撃に息を詰まらせ、蛇川は大きくよろめいた。
「何なの、あの男はッ!」
蛇川の手を見たマミが絶叫を上げる。その両手に巣食う無数の目玉のひとつがマミを睨めつける。マミは悲鳴を上げて安達泰人の影に隠れた。
安達泰人はバルコニーから身を乗り出し、目を輝かせて階下を見ている。
その顔はもはや、帝都東京都知事のそれではない。
狂人・安達泰人の壮絶な笑みがそこにあった。
間髪を入れず襲い来る鎖をかわし、蛇川が横ざまに飛び退く。続けざまに唸る鎖が、その脚を強かに打った。
体勢を崩され、受け身もなにもなく蛇川が転がる。先ほど強烈な痛打を浴びた左肩付近に激痛が走り、立ち上がることもかなわず蛇川は床に蹲った。
両腕に鎖を垂らした寿太郎が、胸を震わせて咆哮を上げる。
「どうしたね骨董屋、その程度かね!」
興奮した安達泰人の声が反響する。
「谷田部の時はどうやったんだ、ええ!? そんなざまでどう立ち向かったというんだ!!? その禍々しい両手は飾りかね!!!」
「門外漢の肉塊ずれが、喧しい……ッ!」
歯噛みしながら唾を吐き捨て、蛇川が左肩を回す。
痛みはあるが、折れてはいない。障りはあるが、存分に動く。
打たれた脚をさすり、蛇川がゆっくりと立ち上がった。
天井を震わせる寿太郎にひたと目を据えたまま懐に手をやるが、しかしその顔が瞬時に歪んだ。いつもならそこにあるはずの重みが、ない。
油断していた。
あるいは気が逸っていたのかもしれない。
あの日、谷田部を尋問すべく銀座を出た蛇川は、必要な時には必ず持ち歩く赤茶の短刀を持たなかった。もう用はないと思っていた。谷田部に憑いていた鬼、春川信夫は成仏した。残るは腑抜けた悪党のみ……そう考えたのだ。
谷田部家で変事を知り、マミの正体に気付き、安達泰人の周到さを思い知って店へと飛んで戻ったのだが、ビル前でそのまま拉せられたのだ。短刀を手にする余裕などなかった。
思えばその時に気付くべきだった。
蛇川が留守の際、くず子は決して店の扉を開けない。つまり扉は外から開かれた。マミは再び、店の扉を引き開けたのだ。
一度扉を引いて開けたマミだから二度目も同じようにした、とは考え難かった。
普通、ヒトには、外から内へ入る際には『押し開ける』動作が染み付いている。
たかだか二度来訪しただけの女が、しかも一度目は演技でもなく憔悴しきっていた女が『引き開ける』という特殊な動作を自然とこなせるはずがない。
皮肉にも、マミはまだ蛇川の客だった。
蛇川と同じ世界の住人だった。
安達寿太郎という鬼の存在が、マミに扉を引き開けさせたのだ。
今更己の不覚を恥じたところでどうしようもない。
首を振り、目の前に意識を戻した蛇川だったが、しかし気を取り直した瞬間喉に激しい衝撃を受けた。寿太郎の突進をもろに食らったのだ。
「ガアアアァッッ!!」
言葉にならない絶叫を上げ、寿太郎が蛇川の喉を締め上げる。青白く、薄汚れた寿太郎の腕は見るからに非力だったが、しかし鬼と化した寿太郎には、ヒトならざるモノの異常な腕力が備わっていた。
潰された喉から鉄臭いものがせり上がってくる。それを寿太郎の顔面に向かって噴きつける。
血の目潰しを至近距離からくらい、寿太郎が驚愕の声と共に仰け反った。
即座に、押し倒された体勢のまま蛇川が両足を引き上げ、革の靴底を力一杯寿太郎の胸に叩き込んだ。思わずよろめき立ったところへ、続けざまに二度、三度と追撃を放つ。
距離が開いたとみるや蛇川は足の反動を用いて飛び起き、屈み込んだ体勢から砲弾のような頭突きを繰り出した。撫でつけられた髪が寿太郎の顎に直撃し、寿太郎が苦悶の呻きを漏らす。
一寸の間、頭を抱えて同じように呻いていた蛇川は、鋭い目で顔を上げると垂れ下がる鎖を両手に取った。先は寿太郎の首に繋がっている。
手にした鎖を強く引き寄せると同時に、その反動を活かして跳び上がる。
身を乗り出した安達泰人が見守る中、寿太郎の顔面と蛇川の膝頭が激しくぶつかり合う。
寿太郎の絶叫が室内に満ちる。バルコニー上のマミと綿入れの男が、我が身を抱いて震え上がる。
鮮血を吐き出す寿太郎の口元から、白い歯が数本転げ落ちた。
蛇川の一撃は軽い。吾妻のような鋼の肉体もなければ、薄い体には重みもない。
しかし蛇川は己の闘い方を知っている。
攻めて攻めて、相手に息をつかせないことだ。
流れるような連撃に、昏い目の男がわずかに両の眉を上げた。いつしか拳銃を構える手が下がり、二人の攻防を見守っている。
蛇川が肩で息をつきながら、寿太郎を睨みつけた。
「あんたの望みはなんだ、寿太郎……」
顔面を抑えてのたうち回る寿太郎は、しかしその呼びかけに反応しない。この世のものとは思えない悍ましい叫びが、血まみれの口から絶えず迸る。
蛇川の革靴が床を打ち鳴らした。
「答えろッ、寿太郎!」
激しい怒気をはらんだ問いに寿太郎の咆哮が応えた。
叫びざまに起き上がると、四肢をもって床に這い蹲り、獣のように、対峙する敵を睨め上げる。
口からは赤い舌が垂れ下がり、鉄臭く、熱い息がそれを濡らしている。
「答えろ! あんたの望みはなんだ!! あんたが鬼となった理由はなんだッ!!」
身を捩り、寿太郎が吼える。
血を撒き散らし、己を戒めていた鎖を打ち鳴らしながら何度も吼える。
その頬を、滂沱の涙が濡らしていた。
「ウオオォォーーーッッ!!!」
両の手足で床を蹴った寿太郎が、恐るべき速さで蛇川に肉薄する。
半身でそれをかわした蛇川が、腕を伸ばして寿太郎の着物の襟ぐりを掴んだ。突進の勢いに沿わせるように襟を引き、そのまま寿太郎を投げ飛ばす。
すぐさま体勢を整えた蛇川の首に、しかし生き物のように伸びた鎖が絡みついた。
咄嗟の判断で右手を差し出し、首と鎖の間に滑り込ませる。
窒息は逃れたものの、しかし半身の自由を奪われた蛇川は、鎖に引き摺られて激しく壁へと叩きつけられた。
痛めつけられた喉が悲鳴を上げ、壁の血痕に新たな血痕を重ねる。
倒れこんだまま、寿太郎が凶暴な腕力をもって鎖を引き寄せる。
なす術もなく引き摺られ、蛇川の体が今度は床に打ち付けられた。傷めた左肩を強かに打ち、蛇川が痛みに絶叫を上げる。
その瞬間、反響する叫び声を四発の銃声が切り裂いた。
一寸、その場が凍りつく。
しばらくの間を空けて追加の一発が鳴り、かすかに聞こえていた呻き声が途絶えた。
荒々しい幾つもの足音に重なり、懐かしい声が蛇川の鼓膜を揺らす。
「いるかっ、蛇川アァーーーッッ!!!」
怒りと緊張に膨れ上がっていた蛇川の体から、瞬く間に力が抜ける。
鎖に首と右手を拘束されたまま、頭部から血を流したまま、肩の激痛に耐えたまま。
蛇川は笑った。
しかしひとつ瞬きの後、その顔が音の鳴るほどに引き締まる。
色味のない唇を最大限まで開き、声の限り叫ぶ。
「遅いぞっ、吾妻アァーーーッッ!!!」




