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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
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五十 :激闘

 無言のまま昏い目の男を睨みつけながら、蛇川が一歩足を踏み出した。


 ――と、背中にわずかな引っかかりを感じて振り返る。


 部屋中央を照らす光は、壁際までは届かない。薄暗いそこに目を凝らしてみれば、壁には大小様々な傷があって、そのささくれが蛇川のシャツを引っ張っていた。


 傷をあらためていた蛇川は、その周囲にも血痕がべたりとこびりついているのを認め、顔をしかめた。床についたものより相当に古いものと見える。


 そこかしこに血痕が残る部屋の異様さに、蛇川の口から呟きが漏れた。


「何なんだいったい、この部屋は……」


「子供部屋だよ」


「……なんだと?」


 唸るように聞き返す蛇川に、安達泰人が緩慢な動作で向き直った。


「子供部屋だよ、ここは。優秀な安達の後継者を育て上げるためのね……」


 蛇川の顔がさらに険悪に歪む。壁からゆっくりと振り返ると、安達泰人を()めつけた。


 困惑と様々な思考、そして強い怒りを宿した激しい視線を、安達泰人は気負いなく受け止める。


「昔、ここにはたくさんの子供たちがいた。彼はその中で最も優秀だった……だから彼は『寿太郎』となった」


 うっとりと、独り言のように呟く安達泰人に、蛇川が口を開きかけた。

 途端、酷い頭痛と耳鳴りが蛇川を襲う。


 黒い革手袋でこめかみを抑え、もう一方の手を壁につく。


 なんとか堪えながら顔を上げると、寿太郎がわずかに動き出していた。

 油の切れた機械時計のようなぎこちない動きで、うっつらと顔を上げる。寿太郎を戒める鎖が揺れて、金属音を響かせた。


 落ち窪んだ目は、正面から蛇川を見据えていた。


 その視線に囚われるだけで鼓動が早まる。


 息が上がり、粘ついた嫌な汗が噴き出る。


 肌という肌が粟立ち、毛は逆立ち、生理的な恐怖が総身に満ちる。


 視界が歪み、床の感触がなくなり、蛇川は思わず膝をついた。


「ひ、ひいいィィーーーッッ!!!」


 マミが仰け反り、悲鳴を上げる。その声に綿入れの男が慌てて跳ね起きる。スーツ姿の男二人は、及び腰で数歩後ずさった。


「安達家がどうやって成り上がったか。君のことだ、その経緯もどうせ調べ上げてきたんだろう。うちの歴史は存外に浅く、その土台は磐石とはいえない。

 土台がしっかりしていれば、当主が暗愚だろうとも多少のことで揺るぎやしないが、しかし安達家はまだ若い。知に長け、利に聡く、機を知り、道を識り、断ずる勇気を持った者に家を預ける必要がある」


「……その人材を育て上げるのがこの部屋だと? この血濡れた部屋が……?」


「成長に痛みはつきものだ。マミ、こちらへおいで」


 引き攣った蛙のような声を上げる愛人に歩み寄り、安達泰人がその手を取った。マミは必死に首を振る。


「バルコニーに上がろう。そこなら怖くないだろう。あそこには決して近付かないよう、子供達には厳しく言いつけてあるからね」


 優しく諭され、観念したようにマミが従う。安達泰人に手を引かれ、強張った様子で部屋に入る。


 天井の高い部屋には中二階があり、部屋の右奥にある螺旋階段がそこに繋がっていた。できる限り寿太郎から距離を取りながら、手を繋いだ二人がそこへ向かう。


 安達泰人の背中と廊下とを交互に振り仰いでいた綿入れの男は、決心したように立ち上がると、失神したくず子を抱えてそれに従った。


 すれ違いざま、安達泰人が昏い目の男に顎をしゃくる。心得たように頷くと、男は螺旋階段入り口に設けられたアコーディオン状の伸縮フェンスを引き伸ばした。

 今にも閉じられようとしたその隙間に、すんでのところで綿入れの男が滑り込む。


 昏い目の男は、階段に取り付けられた鎖をもってフェンスを固定した。太い鎖が手早く何重にも巻き付けられる。

 頑丈そうな南京錠に鍵を差し込むと、その鍵を綿入れの男に渡す。どうやら、昏い目の男にバルコニーへ登るという考えはないらしい。


 置いて行かれたスーツ姿の男たちは、顔を見合わせ、そのまま廊下に立ち竦んでいた。


「かつてこの部屋には三十をこえる子供たちがいた。全て別の女の腹から産まれた子供だ。女の家柄は問わなかった。良家の子女から卑賤の女まで、様々だ。どいつも己が安達家当主の妻の座に収まることができると信じ、容易く股を開いたよ」


「……狂っている」


 よろめきながら立ち上がった蛇川が、罵倒とともに唾を吐き出した。薄っすらと血が混じっている。寿太郎の目の束縛に対抗するため、口内を強く噛み締めていたらしい。


 安達泰人が口髭を揺らして笑った。


「だがそれが現実だよ。君が怒りに燃える獣だとしたら、大多数の人間は金と権力を求め彷徨う獣だ」


 安達泰人は再び寿太郎に向き直った。その目には厳しく、力強くも優しい光――父性が宿って見える。


 時や場所が違えば、その眼差しは万人に好意的に受け取られたろう。

 しかし血にまみれ、異臭を放ち、涎を垂らしながら全身を震わせる青年を愛おしそうに見つめる安達泰人は、狂気の塊にしか見えなかった。


「ひとつ答えろ。『寿太郎』の名をもらえなかった子らはどうなった?」


「骨董屋。君はガーデニングをやるかね?」


「……なんだと」


「園芸だ。より強く美しい花、あるいは果実を育てるためには外せない工程がある。……間引きだよ」


 その言葉に体を強張らせたのは蛇川ひとりではない。安達寿太郎もまた、自由の利かない体を右に左に捩り、呻き声を上げる。動き始めた寿太郎に、マミと綿入れの男の悲鳴が重なる。


 悲鳴に誘われるようにして寿太郎の動きが激しさを増した。

 わずかに許された範囲で腕を、足を振り回し、鎖の戒めを打ち鳴らす。


 あまりの力に押し負けたか、どこかの部品が外れ飛び、甲高い音を立てながら床で跳ねた。


「成長の途中途中で見切りをつけ、育ち具合のよくない苗を切り捨てる。大事なのはその選抜を生き残った強い苗だ。間引いた苗がどうなったかなんて、庭師は気にも留めないだろう」


「……この子供部屋は、あんたが言う『間引き』のための部屋なのか? この血は『寿太郎』になり得なかった、哀れな、名も無い子供のものか……!?」


「中にはうちの使用人のものも混ざっているが、まあその通りだ。そこらに散っているのは、あくまで最終試験で間引きさせあった(・・・・・・・・)時のものだがね」


 あまりのことに、蛇川は言葉を失った。


 安達泰人の声音は冷静そのものだ。表情も、話し口調も会食の時となんら変わりはない。

 しかしその目だけが異様な光を宿していた。


 研ぎ澄まされた蛇川の直感が警鐘を打ち鳴らす。


 安達泰人の凶悪な牙は、今まさに剥き出しにされていると。


 ――安達泰人は、狂っている……


 蛇川の内心を見透かしたかのように、安達泰人が肩を揺すっておどけて見せた。


「勘違いしてくれるなよ。暴力はあくまで最終手段だ。子供らにはまず学問という学問を身につけさせた。儀礼も、上流社会における社交術もね。結果だけを見ると、最後の最後に彼らは互いを殺し合ったが、必ずしも相手の息の根を止める必要はなかった。ただ暴力で相手を屈服させればよかったんだ。こうも激しく暴れ回ったのは子供らの意志だ、強要はしていない。

 ……嘆かわしいかな、その結果がこれだ。寿太郎は血に狂い、正気を失ってしまった……」


 蛇川の口元からおぞましい音が漏れた。堪え切れない激情が、歯軋りとなってこぼれ落ちていた。


 あまりの激憤に唇の端を食い破りながら、蛇川が呻く。


「さっき、僕はあんたのことを『死者にたかる蛆虫』と言ったが、あれは間違いだった……一緒にしては蛆虫のほうが可哀想だ。


 この世に真の鬼がいるとすれば、それは貴様だッ、安達泰人!! たとえ世間が貴様の所業に目を瞑ろうと、僕は決して貴様を許さん!!」


 寿太郎を拘束する金具が次々に弾け飛び、甲高い音が立て続けに響く。

 高い天井に轟く蛇川の怒声と合わさり、渦となった音が安達泰人の鼓膜を揺らす。


 両耳に手を当て、心地好さそうにその揺れに身を任せながら、安達泰人がうっとりと目を細めた。


「……いい。実にいい目だ。知に長け、利に聡く、機を知り、道を識り、断ずる勇気を持った男の目だ……。君のような男が寿太郎を支えてくれたなら、と切に願うよ」


 獲物を前にした獣のように腰を落とした蛇川を見、「少し血の気が多すぎるようだがね」と言って安達泰人が笑った。


 ひときわ大きな金属音と共に、ついに立ち上がった寿太郎が天井に向かって吼えた。柱が、梁が、バルコニー全体が揺れて木屑が舞う。


 床を蹴る蛇川もまた、抑えようのない咆哮でそれに応えた。

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