四十九:激闘
暗闇を進んできた目に光が眩しい。
ようよう慣れてきた頃、蛇川は目を庇っていた腕を下ろした。
途端、酷い悪臭が鼻を突く。
一度下げた手を持ち上げて、今度は鼻を庇ってやる必要があった。
端正な顔をしかめ、蛇川の目が一切の油断なく室内を観察する。
丸い光が、部屋中央の椅子を中心にして降り注いでいた。
そこに座る青年、安達泰人の愛息――安達寿太郎は、蛇川の視線などまるで気にせず、項垂れたまま身動ぎもしない。闇の中から突如引き摺り出されたにも関わらず、光に怯えるでも、眩しがるでもなく、ただ半開きになった口から涎を垂れ流している。
寿太郎の着物はあちこちが破れ、その向こうに骨ばった肢体が見えている。青白い肌が、太陽と切り離された時間の長さを物語っていた。垢がこびりついた着物は重く垂れ下がっている。
寿太郎が座る椅子周辺は酷く汚れており、堪えきれない悪臭の原因はそれらしかった。
四肢を戒められた寿太郎が仕方なく垂れ流したらしい糞尿と、椅子や床に飛び散ったおびただしい量の血痕……
染み付いた血痕は、到底ヒト一人分の量に収まらないと推察された。少なくとも二桁を超える人間の血が、寿太郎を囲むようにしてそこここに付着している。
時を経て固まった血の海の中には、小さな塊が点在している。
それが何かなど想像したくもなかったが、しかし答えは容易に推測できた。血痕の一部となった者の肉片……あるいは骨片。
血の量に対して『残りカス』があまりに少なすぎるということは、寿太郎はそれを、喰ったのだろうか――
ふん、と蛇川が鼻を鳴らした。
「愛息だと? ふざけるな。僕にはよほど凶悪な殺人鬼にしか見えんがね」
がたり、と物音がして視線をやると、マミが廊下の空き箱の上にへたり込んでいた。顔色は蒼白を通り越して土色に変わり、唇を戦慄かせている。
目元を激しく痙攣させながら、しかし寿太郎から目を背けずにいるのは、出来ることならその姿を見ることも避けたいが、近くにいる以上はその挙動から目を離せないという苦しい葛藤が見て取れた。
何があったかまでは分からない。しかし寿太郎の存在こそが、鬼に対するマミの異常な恐怖心の理由に違いない。
怯えきったマミに侮蔑の一瞥をくれると、蛇川は部屋に進み入った。
スーツの男らは牽制するように拳銃の撃鉄を鳴らしたが、しかし足は固定されたかのようにその場を動かない。
昏い目の男だけが、蛇川と安達泰人の間に立ち塞がるようにして部屋に入った。
途中、くず子を抱えた綿入れの男の首根を掴み、引き摺るようにして綿入れの男を部屋に連れ込む。蛇川をくず子に近付けさせない魂胆らしい。
綿入れの男は押し殺した怒声と共に腕を振るったが、しかし首の拘束は緩まない。振り返り、一切の感情を見せない昏い目とかち合うと、綿入れの男はぎくりと肩を竦ませ、大人しくなった。
いっそう濃さを帯びる悪臭に顔を歪め、蛇川が忌々しげに舌を鳴らした。昏い目の男を睨みつけると、綿入れの男に向かって顎をしゃくる。
「おい」
不意に呼びかけられ、背後を振り返っていた綿入れの男は怯えた目を正面に戻した。
「さっさとこの部屋から出て行け。その子をアレに近付けるな」
「……なぜ、俺があんたに指示されにゃならんのだ」
「強がるなよ、見苦しい。……怖いんだろう?」
嘲笑に唇を歪め、蛇川が綿入れの男の着物を指差した。全身の震えが伝わり、男の着物は裾が小刻みに揺れている。
かっと顔を赤らめ、綿入れの男は反論のために口を開いた。しかし中途半端に開かれた口からは荒い呼吸が漏れるばかりで、反論することはできなかった。
「僕をその子に一定距離以上近付けるなというのがあんたの主人の命令ならば、退いてやる。さっさと出て行け」
言うなり、蛇川は何の気負いもなく歩き出した。
安達泰人らの反対側、部屋の左手に足を進めると、壁に背を預けてゆったりと腕を組んだ。呆然としている綿入れの男に向かい、入り口を顎で示す。
綿入れの男は媚びるような視線を主人に向けた。それを顧みることもなく、安達泰人が「好きにしろ」と短く吐き捨てる。
それを聞くなり、見栄も何もかなぐり捨てて綿入れの男が部屋から逃げ出した。暗い廊下にまろび出ると、くず子を脇に下ろして仰向けにひっくり返る。
その拍子にマミが腰掛けていた木箱が揺れ、マミが苛立たしげに舌を鳴らしたが、しかし文句は言わなかった。顔をしかめ、スカートの裾を押さえて立ち上がる。
あまりの恐怖に意識を手放したらしいくず子は、ようやく得た身の自由にも気付かず、細い手足を廊下に投げ出していた。
少し迷い、銃口を蛇川に向け直した昏い目の男に、蛇川が苛烈な視線を投げる。
男の目は屋敷中の闇を集めたよりも昏く、その表情は凍てついたように動かない。
恐怖や嫌悪感を全身で表すマミや綿入れの男のほうが、よほどか人間らしかった。
「あんたは怖がらんのだな」
何の反応も見せない男に、蛇川が視線で寿太郎を示す。ちらとその視線を追いかけた男が、昏い目のまま小さく首を傾げた。
「……怖がる必要がないからな」
「その男は強いよ、骨董屋」
うっとりとした目を寿太郎に向けたまま、安達泰人が続きを引き取る。
「獣が恐れるのは、己の命を脅かす相手を前にした時だけだ」
昏い目の男は唇を引き結び、黙って安達泰人の言葉を聞いている。
その目は何も求めておらず、その声は何も信じていない。
求めない代わりに、何を与えるつもりも毛頭ない。
昏い目と、蛇川の鋭い目とが、血に濡れた部屋で交錯した。




