四:童喰らう鬼
小澤が恐怖したのは、尋常でない女房の様子のせいではない。
革手袋を剥ぎ取った蛇川の両手には、大小無数の瞳がついていた。それが一斉に小澤を見たのだ。血走った白眼に、見た事もない、玉虫色に似た不思議な瞳。それが、ざわざわと奇妙な音を立てて小澤を睨めつける。
両肘を僅かに曲げて充子に対峙しながら、小澤には目もくれずに蛇川が言い放つ。
「恐ろしいかね、この両手が。だが、これら『鬼』を生じさせるのは、あんたみたいなクズどもだ……見ろ、あんたの元女房を」
見事な黒髪を血で濡らし、右目を飛び出させたままの充子が、震えながらゆらりと立ち上がる。蛇川に砕かれ、歪に開いたままの口からは、小さく声が漏れていた。
聞いてはならぬという思いと、聞いてしまいたい思いに苛まれる小澤の耳に、その声は確かに届いた。
――次こそ……きっと、男の子を産んでみせますから……
「ぎッ、」
引き絞るような小澤の悲鳴が、乾いた銃声にかき消される。
手の震えのために狙いを外した銃弾は、蛇川のうなじを僅かに撫でて部屋の柱に突き刺さった。灰褐色の瞳は、しかしそれでも微動だにしない。
代わりに動いたのは吾妻だった。間髪を入れず、足元の畳を踏み抜く勢いで飛び出し、慌てた様子で次の弾をこめる安田へと駆け寄る。何事かを喚く安田の後頭部に両手をかけると、跳び上がり、硬い膝を人中に叩きこむ。
鼻腔から熱い血を噴き出しながら、安田は畳の上に崩れ落ちた。
安田を倒した勢いそのままに、吾妻は部屋の後方で硬直したままの着流し連中へと向かっていく。猛然と駆けてくるその姿は、まるで荒れ狂う黒波のよう。
男達は、戸惑いながらも匕首を抜き、嵐のように怒気を伴って向かいくる暴力の化身に対峙する……。
走り幅跳びの要領で最後の一歩を踏みこんだ吾妻が、手近のひとりに強烈な飛び蹴りを叩きこんだ。骨の砕ける感触が、足裏を通じて響いてくる。
着地したところをすかさず匕首が狙ってきたが、その腕を取ると、着地の反動を利用し、巻きこむようにして自前の投げ技をきめる。型などない。実戦で鍛えた喧嘩戦法だ。
直後、背中に拳を受けたが、逆に突いた男がその硬さに驚愕の声を漏らした。
男ひとりを投げ飛ばして不安定な体勢だったにも拘わらず、殴られた吾妻はびくともしない。
「なんだァ、今のは」
流れるような暴力から一転、のっそりと男に向き直る吾妻の顔は、唇の両端が吊り上がった凄まじいものだった。
「ガキのお遊戯会じゃねえンだぞ! 突きってェのは……」
踏み出した左足を軸に、身体全体を捻る。
捻りの力を加えて突き出された拳は、それそのものの大きさの何倍もの圧力をもって、男の顎を殴り抜いた。
木の葉のように吹き飛ぶ仲間を見て、残るふたりの体から力が抜ける。頭に昇った血がさっと降りるのと合わせて、戦意が汗のように流れ出していく。
吾妻は肩を竦め、溜息をついた。
「こうやるんだ。お分かり?」
部屋の後方で暴力が渦巻いている間、小澤はぴくりとも動けずにいた。
充子……いや、充子だったモノが呟いたその言葉が、まるで強靭な蜘蛛の糸のように、小澤をその場に縛りつけていた。
小澤正人が、ずっと恐れていたもの。
強く、強く蓋を閉め、決して臭気が漏れ出ぬようにと封をしたはずのもの。
「美津子……」
半ば無意識に小澤の口から漏れ出た言葉に、元女房が僅かに反応を見せる。飛び出た右目から、赤い血がつうと流れ落ちた。
「あんたは後継者がほしかったんだ。己が築き上げた宝を引き継ぐ番人がね。なのに、元女房は……美津子は三度もしくじった。二度ならず三度も、役に立たない女を産んだ。……最終的に何が引鉄だったかは知らないさ。だが、あんたはついに美津子を手にかけた」
がたがたと全身を震わせる小澤の耳には、蛇川の言葉もほとんど届いていないらしかった。呆けたように、鬼と化した美津子を見つめ、その名前を呟いている。涙で顔を濡らした正憲が縋りついてきても、一瞥すらもくれなかった。
「女房を殺し、女房殺しが露見するのを恐れて三人の娘も殺した。実際に手を下したのは、そこで伸びている懐刀かもしらんが……そんなことはどうだっていい。
折も折、女しか産まない美津子を体良く追い払うために仕込んでいた莫迦な従兄弟が、狙い通り、会社の金に手をつけた。これ幸いと、かねての計画そのまま、あんたは美津子を離縁したと触れ回った。犯罪人の親戚は信用ならん、娘共々、生まれ故郷へ帰してしまえ――」
「わ、わたしは悪くないっ!」
「知るか。真に悪いのは誰か、決めるのは僕じゃない」
わずかに正憲を庇う位置に立ちながら、蛇川は一瞬たりとも鬼から目を逸らさない。
部屋の後方から濁った悲鳴がふたつ聞こえてきたが、眉の毛一本すらも動かさなかった。
ぶるぶると体を震わせ、鬼と化した美津子が金切り声を上げた。人智を超えた高音域の雄叫びが、名画を飾った額縁の硝子板を砕けさせる。蛇川の全身が、彼の意に反して僅かに痺れる。
その一瞬の隙を逃さず、鬼が蛇川に襲いかかった。
突き出された鋭利な爪が、色の薄い頬の肉を抉る。爪よりも紅い玉の血が、弧を描いて弾け飛ぶ。
端整な顔を歪めながらも、蛇川は懐に手を突っこんだ。
すぐさま引き抜かれたその手には、複雑な紋様が彫り込まれた短刀が握られている。
手のひら程な大きさの鞘を払うと、青白く澄んだ刀身が現れた。腰をため、それを目の高さに構えて左手を柄頭に添える。
吾妻に散らされた破落戸風情とは格が違う、肉を刺し、抉る術を知った者の構えだった。とても平凡な骨董屋亭主とは思えないほど、その構えは堂に入っている。
「知るものかよ。誰が悪いだとか、何が正義だとか……誰が、何を思って鬼になるかなど」
鬼の両眼からは止めどなく血が流れている。
涙だ、あれは。彼女の。美津子の。そして充子の。
短刀を持つ右手を、小指から順に握り直す。
「だが、把手を引いてしまったらば僕の客だ……ならば、斬るしかなかろう」
蛇川の全身に精気が満ちたのを感じ取ってか、鬼が再び金切り声をあげる。
あんたとて、苦しかろう。そう呟く蛇川の声は、耳障りな雄叫びに掻き消された。
短く息を吸い、「喝ッ」と裂帛の気合いと共に畳を蹴り、蛇川は全身で鬼の懐に踊りこんだ。