四十八:激闘
ギンの放った弾丸が女狙撃手の喉笛を食い破った頃、蛇川らは銃声とは逆方向へと急いでいた。
一度、激しい轟音と共に屋敷全体が振動に見舞われた際には全員の足が止まったが、再び歩き始めた時、先頭の安達泰人は明らかに歩調を速めていた。
下り勾配の廊下を進み、階段へ。
階段を過ぎるとまた下りの廊下があって、どうやら目的地は地下深くにあるらしかった。
くず子は無駄と分かりきった抵抗を虚しく続けていた。足を踏ん張り、手を引く安達泰人について行くまいとする。
ささやかながらも行進を鈍らせるくず子に苛立ち、見兼ねた綿入れの男がくず子を抱え上げた。
マミはといえば、先程の蛇川がよほど恐ろしかったのか、唇を震わせるばかりでもう手を上げようとはしなかった。
男の背に頭を向けて、荷物のようにくず子が肩に担ぎ上げられる。涙に濡れた瞳が後方に続く蛇川を見つめる。
蛇川は微笑をもってそれに応えたが、すぐさま昏い目の男が二人の間に割り込んだ。その手にはいつでも発砲できるよう準備された拳銃が握られている。
欠片の憐れみもなく少女を狙う銃口を睨みつけ、蛇川は両手を挙げて抵抗の意がないことを示した。
隙間なく敷き詰められていた毛足の長い絨毯がやがて剥がれ、剥き出しの木の板の廊下に変わる。
最初のうちこそ、玄関口へ向かうらしい安達の私兵とすれ違ったものだったが、その頃には人の気配すらなくなっていた。
木の廊下を踏み鳴らす足音は七つ。
先頭を行く安達泰人と、くず子を抱えた綿入れの男。牽制のため、くず子に照準を合わせたままの昏い目の男と、回転式の自働拳銃を構えたマミがそれに続く。
少し間隔を空けて黒スーツの男が並び、蛇川と続く。最後尾では、同じく黒スーツの男が蛇川の後頭部に銃口を突きつけている。銃身を一切ぶらさないその男の目は、度の強い眼鏡の奥底で鈍く光っていた。
銃を構えているとはいえ、最後尾を眼鏡の男一人に任せているのは、男がよほどの手練ゆえか。それとも蛇川が決してくず子を置いて逃走しないことを見越してか。
備えつけの明かりの間隔も徐々に空き、廊下一帯が暗い闇に包まれる。
安達泰人は脇に積み重ねていた木箱を探ると、中から携帯電灯を取り出した。
安達泰人を中心に、丸い光の輪があたりを照らす。木箱の傍を通り過ぎざま、昏い目の男も携帯電灯を一つ手に取った。
小さな明かりを頼りに一行が進む。廊下は物置代わりになっているらしく、あちこちに積まれた木箱が七人の足を引っ掛ける。
やがて大きな鉄製の扉が見えたころ、ち、と忌々しげな舌打ちが廊下に響いた。綿入れの男だ。
「こら、暴れるな! 放り落とすぞ」
ばたつく足に顔面を蹴られ、綿入れの男が激しく肩を揺さぶった。
それまでは両手で男の背を叩く程度の愛らしい抵抗をしていたくず子が、地下を進むにつれ、尋常でない暴れようを見せるようになっていた。ワンピースの裾が捲れ、細い腿が露わになるのも構わない。
血の気が失せた顔を恐怖に歪めたくず子を見、蛇川ははっと息を飲んだ。
次いでマミを見る。彼女もまた、くず子と同じ表情を闇に浮かび上がらせていた。
蛇川は確信した。
この先で一行を待ち受けるのは……
「――都知事」
背後から呼び止められ、安達泰人は足を止めた。
ゆったりと振り返ると、蛇川が廊下に立ち止まっている。
眼鏡の男がその後頭部へ銃口を押し付け、先へ進むよう促すがびくともしない。
何をするのかと警戒を強め、くず子を抱いた綿入れの男と目配せを交わす。
しかし、蛇川が取ったのは安達泰人が予想だにしない行動だった。
彼は、深々と頭を下げてこう言ったのだ。
「……お願いします。その子を離してやってください」
頭を下げたまま「お願いします」と再度懇願する。
安達泰人を庇うように立つマミが、訝しむように眉根を寄せた。先程まで牙を剥き出しにしていた獣が、ここへ来て突然なぜ……と。
「お願いします。その子さえ無事に解放してくれれば、僕はなんだってする。万が一、あんたが望む通りに僕が動かなかった場合は即座に殺せばいいだろう」
「それはできない……今はまだ、ね。大仕事が待っていると言ったろう。それを完遂するまでは僕は君を殺しはしないし、君は僕の前から逃げ出してはならない」
「逃げなどしないし、命に賭けてやり遂げると誓う」
「生憎、口約束は信じない性質でね」
どうか、と蛇川は遮るように言葉を続けた。
「頼む。――その子は、アレに近付けちゃならない」
その場にいた全員が目を見開いた。
安達泰人は抱え上げられたくず子を見、扉を見ると、再度その目を蛇川に向けた。姿勢よく手を体の横に沿えたまま、蛇川は頭を下げ続けている。
口髭の隙間から漏れたため息は、感嘆の色に染まっていた。
「本当に、君は私の想像の上を行く。この先に何があるのか、既に気付いていたというのかね」
「気付いたのはその子自身だ」
「そうか……」
綿入れの男から暴れるくず子を引き取ると、その細腕を掴んで油断なく引き寄せ、安達泰人が扉へと向き直った。懇願は破棄されたのだ。
その背に向かって蛇川が吼えた。
「安達!」
「私は完璧主義でね。保険は多くかけておくに越したことはない」
「待てッ! その子を……」
「次に足を踏み出したら!」
鋭く割り込んできたマミの声が、蛇川の体を硬直させる。
唇を青くし、声を震わせながらもなお気丈に構えるマミの自働拳銃は、くず子の顔にひたと据えられていた。
「……言わなくても分かるだろう? 骨董屋さん」
固く握られた蛇川の拳が怒りに震える。
眉間には深い縦皺が刻まれ、唇が憎々しげに歪む。その隙間から歯軋りが漏れる。
「外道が……ッ!」
「いいや」
安達泰人の大きな手が扉を押す。上質な背広越しに筋肉の盛り上がりが見える。
最初は片手で押していたものが、よほど重量のある扉らしい。再び綿入れの男にくず子を引き渡すと、両手をもって鉄製の扉を開けにかかった。
徐々に広がる扉の隙間から、部屋の中に澱んでいた闇が流れ出してくる。
冷ややかな空気が足元から這い上がってくる。
闇の中に半身を突っ込むと、安達泰人が大きなレバーを下に下ろした。
ブゥン……とモーターの唸る音がして、しばらくの間を置いてから激しい閃光が駆け巡る。
光が一行の目を射ると同時に、くず子の喉から金切り声が走り出た。
――きっと、鈴の音のような声をしているに違いない。
――いつか、かろかろと笑うこの子の声を聞いてみたい。
しかし蛇川が初めて耳にしたその声は、哀しみと恐怖に塗り潰されていた。
子供の悲鳴などどこ吹く風で、うっとりと、場違いな調子で安達泰人が言う。
「……今の私は、我が子を愛する一人の父親さ」
酷い悪臭が鼻をつく。
思わず腕で鼻を覆った蛇川の瞳に、闇の中から浮かび上がった一脚の椅子が映った。首から下のあらゆる部位を鎖で戒められ、着物姿の青年がそこに座っている。
「紹介しよう。我が愛息、寿太郎だ。
谷田部を救った君にならば任せられる。骨董屋、哀れなこの子を正気に戻してやってくれ」