四十二:鴛鴦組の男共
「まったく、お前ェらは……」
右手で額を押さえ、呉壱はやれやれとため息をついた。
「お前ェらを動かすその、崇高な私情ってえのは一体なんだ? 大事な大事な、極上の天女が奪われでもしたか?」
「いえ。……奪われたのは、俺の友人です」
「友人、ねえ……」
懐かしい響きだ。目を細め、呉壱が煙と共に言葉を吐き出す。
「聞いてもいいかい。命に代えてでも取り返したい友人ってなァ、どんな奴だ?」
「例の骨董屋ですよ、親仁」
実際に会わせたことがあるのはギン一人だが、骨董屋・がらん堂の存在自体は、呉壱を含めた数名の鴛鴦組組員が知っている。
鬼を『斬った』際に得られる鬼の涙には、宝石に勝るとも劣らない価値がある。ある筋に流せば、それは莫大な富に化けるのだ。
薬物を嫌悪し、麻薬や阿片に一切の手を出さない鴛鴦組にとって、蛇川が差し出す鬼の涙は貴重な資金源になっていた。
いわば、蛇川は金の卵を生むニワトリだ。
だから、その代価として吾妻やギン、その他若衆の腕を貸す。
「話には聞いちゃあいたが……便利な駒としてただ飼っているだけかと思っていたぜ」
「最初のうちは、そうでした」
言って、吾妻は苦笑を漏らす。これでもかと眉間に皺を寄せた相棒の顔が、鮮明に脳裏をよぎる。
そうだ。
出会った当時、蛇川は吾妻にとってただの『駒』でしかなかった。
恐ろしく頭が切れ、目的のためには暴力も厭わず、確実に金の山を築いてくれる有能な駒。
吾妻はそれを生かさず殺さず、ただそばで甘い蜜を吸っていればよかった。
その関係が崩れたのは、いつだったろう。
(……興味を持ってしまったからだ)
この男が自分のために涙を流すのは、いったいどんな時だろう。
その涙は、どんな色をしているのだろう……と。
呉壱は鋭い目付きで吾妻を見ていたが、ふと視線をギンへ転じた。
「銀次もその、骨董屋と心中するってえのかい」
「ワシは……ワシはいま、蛇の旦那のために命を投げ出せるかて聞かれたら、それはお断りします。確かに得難い男やとは思うけど、死んでしもたら『あら残念』……それで終いです」
ギンは言葉を切ると、謝罪の言葉と共に吾妻へ向かって頭を下げた。吾妻は肩を竦めてそれに応える。
「ワシが心中するとしたら、それはワシ自身の仁義と、矜持とです。
安達泰人の所業はクズの所業や。奴を見逃すことは仁義にもとる。それに、奴には手痛い一本を取られましたからな……ここで引いたら、ワシの矜持は一生取り戻せんくなる。負け犬の人生など、死んでも御免です」
「……都知事様の正体見たり、てェわけか。まったく、どうしてお前らはそう、面倒事に首を突っ込みたがるかね」
「性分です。だが、組を巻き込むことだけはしたくねえ」
吾妻が深く頭を下げた。ギンもそれに倣う。
「親仁、そういうわけですから、どうぞ受け取ってください」
吾妻の瞼の裏を、あの日の、この日の記憶が駆けていく。
若く、まだ知恵もない吾妻が、極道の世界に足を踏み入れた日のこと。
初めて赤の他人を暴力で傷付けた日のこと、初めて誰かを暴力で救った日のこと。
何日も悩み抜いた末に意匠を決め、背中一面に見事な鳳凰を背負った日のこと。
慣れない拳銃に肩を傷め、呉壱に笑われた日のこと。
奪われた矜持を取り戻すため、命を賭して抗争に臨んだ日のこと……
右も左も分からなかった少年が無我夢中で先達の背を置い、その身体に無数の古傷をこさえる頃には、気付けば自身の後ろに何人もの若者が付き従っていた。
鴛鴦組の未来を担う若者達を、勝算のない闘いへと巻き込むわけにはいかない。
悔やまれるのはギンのことだ。
ギンは若衆の中では群を抜いて優秀な男だ。これを巻き込んでしまったのは不覚だった。
しかし、きっかけを与えてしまったのは吾妻だが、道を選び取ったのはギン自身だ。鴛鴦組の魂たる『仁と義』、それをそのまま写し取ったかのようなギンという男の気性を考えると、それもまた仕方のないことだった。
出来ることなら、安達泰人の元へ特攻することを呉壱に伝えたくはなかった。
万が一、吾妻らと鴛鴦組の繋がりを敵方に気付かれたとしても、鴛鴦組が真実何も知らなければ、安達家からの過剰な接触を抑止できたはずだ。
吾妻は極道としての己に強い矜持を持っている。
何よりも、この鴛鴦組という組織そのものに誇りを持っているのだ。その組に迷惑が及ぶことだけは避けなければならない。
安達家との関わりを一切誰にも知らせない、という防止策は崩れたものの、二人の血判入りの絶縁状があれば、安達家も乱暴はできまい。
鴛鴦組も、その時は吾妻らとはなんら関係ない組織だ。極道やヤクザ者を相手取った時に最も恐ろしいのは面子をかけた報復だが、当然、それの心配もない。あくまで吾妻ら一般人と、安達家との私闘ということで丸く収まる。
ただ、欲を言うなら……散る時は鴛鴦組若頭として散りたかった。
熱いものが鼻筋にまでこみ上げてくる。
それを振り切るようにして、吾妻は踵を返した。迷いない動作で扉に手をかけ、通い慣れた事務所に別れを告げる。
その背に向かい、ひどく耳障りな音が投げかけられた。
吾妻の足がぴたりと止まる。
ゆっくりと振り返る吾妻の目に、白い蝶が舞って見えた。
午後の陽射しを浴びながら落ちるそれは、小さく千切られた紙屑だった。
二枚の絶縁状をすっかり破り尽くしてしまうと、呉壱は音を立てて両手を払った。大道芸人がやって見せるように、空となった両の手のひらを吾妻に向ける。
「親仁……ッ!」
「悪いな吾妻。しかしこいつァ受け取れねえ」
「どうか堪忍してください、親仁! あんたから受けた恩を半分も返さねえうちに、こんな物を突き付けるのは義理に反する。分かっちゃいます、だが……!」
吾妻は纏め上げた髪を掻き毟ると、突然床に膝をついた。
左手を床板に叩きつけ、懐に右手を突っ込む。引き抜いた右手が匕首を握っていることに気付き、ギンがはっと息をのんだ。
口に咥えて鞘を振り払い、鋭い光を宿した刃を己が手目掛けて振り下ろす――
「やめねえか!」
吾妻の肩がびくりと跳ねる。
呉壱が、逆光の中で立ち上がっていた。シミが目立ち始めた顔が、興奮のために赤らんでいる。
呉壱の怒号で震えた空気がそのまま凍てつく。身動ぎをすれば擦り傷ができそうなほど、張り詰めた空気がその場を満たす。
やがてそれが、ふっと緩んだ。
呉壱の眉間からは皺が消え、我が子を見るように柔らかな光が瞳に宿っていた。
「……俺ァ、お前ェの腕をけっこう買ってんだぜ、吾妻。指を落としゃあ刀やハジキ(拳銃)を握る力が弱まる。軽率なことをするんじゃねえ」
「親仁……」
「お前ェはなかなか骨のある極道だが、早合点するのは若ぇ頃から変わらんな。悪い癖だ。『行くな』と、俺が一言でも言ったか?」
「え……」
からかうように広げていた両手を、呉壱が打ち鳴らす。
乾いた音に、幾つもの野太い声が応えた。次いで荒々しい足音が続く。
待ち切れないように扉が押し開けられ、部屋に鴛鴦組の若衆らが雪崩れ込んできた。三人しかいなかった部屋が、途端に男達の熱気で溢れかえる。
薄く口を開き、吾妻は半ば呆然と見知った男達の顔を見つめた。
ある者の顔には深い傷が走り、またある者の目は片方が潰れている。
耳が千切れた者もいれば、殴りに殴られて輪郭が変わってしまった者もいる。
そのどれもが、燃える炎を秘めた瞳で吾妻を見ていた。男達からは、激しい憤怒が感じ取れた。
その内の一人が呉壱に杖を差し出した。それを突き、呉壱が足を一歩踏み出す。
「人情。仁義。己の矜持……結構なことじゃねえか。だがな、それを背負うのはお前達二人だけじゃねえ……俺達、鴛鴦組全員で背負うもんだ。違うか?」
「わ、若頭……ッ!」
ギンの声が震えている。
分かっている。
吾妻もそうだ。今声を出せば、きっとギン以上に震えた声をしていたろう。
手にしていた両切り煙草を投げ捨て、雪駄でそれを踏み潰した呉壱が叫ぶ。
「お前ェらが受けた傷は組の傷だ! お前ェらの怒りは俺達の怒りだ! 今、俺達は一つの刃だ!!」
満身に滾る激情を乗せた怒号が、事務所を、ビルを、男達の体を底から震わせる。
「晴らせッ、俺達の怒りを!!」
「――てめえら、武器は持ってるだろうなッ!!!」
「応ッ!!!」
振り絞るように吾妻が吼え、轟くような男達の声がそれに応える。
鼻筋にまで込み上げていたものは、今や吾妻の全身を駆け巡っていた。
総身の毛がそそり立ち、粟立った肌が細かく震える。
天井に顔を向け、吾妻は再度吼えた。
「総員、揃いの角袖に袴を穿け! 目印の襟巻きに呼吸器(マスクの原型)も忘れるな! 鴛鴦組の存在は、死んでも奴らに気取られるなッ!」
「応ッ!!」
「一度でも抗争に加わったことがある奴だけ付いて来い! それ以外は残ってここを守れ、ガキがいる奴もだ! 来れる奴は二手に分かれろ! 一方は俺に、もう一方は笹部に着け!!」
「応ッ!!!」
名指しされた古株は心得たように頷き、すぐに若衆らを纏めにかかった。
同じように天井を見上げていたギンが、ぐっと喉を鳴らしてそれに続く。襲撃場所を伝えに行ったらしい。
手近には安達家の別荘が二つある。様々な条件からそのうちの一つに的を絞ってはいたが、人数が確保できた今、あえて博打に出る必要はない。戦力を分散してでも、確実性をとるべきだった。
「吾妻ァ」
血気盛んに駆け出して行く子供達の喚声を聞きながら、ゆったりと呉壱が煙を吐き出した。
「しっかりやってこいや。……帰ってきたら、一杯やろうぜ。その、お前ェの友人とやらも一緒によ」
天井を見上げたまま、吾妻がきつく目を瞑る。熱いものが頬を一筋伝う。
吾妻は呉壱に向かって頭を下げた。
もはや言葉はいらなかった。
苛烈な眼差しで顔を上げると、今度こそ事務所を後にした。
もう、後ろを振り返ることはなかった。




