四十一:鴛鴦組の男共
後ろ手に手を組み、吾妻はじっと緊張感に耐えていた。
掌に浮いたねばつく手汗を、両の手をこすり合わせて拭う。
少しでも気を抜こうものなら、たちまち張り詰めた空気に圧されそうになる。肩幅に開いた足を踏ん張り、奥歯を噛み締めてただただ耐える。
場所は新橋にある鴛鴦組の事務所だ。
ビルは全体が半ば鴛鴦組の所有物と化しており、一階には食堂、二階には若衆の詰め所、最上階の四階には酒も提供してくれるカフェがあって、ここ三階が事務所になっている。
吾妻は革張りのソファに向かって立っていた。窓を背にして置かれたソファの向こうから、午後の陽光が差し込んでいる。
上質な革の三人掛けソファは、そこに座る巨躯の体重で大きく軋んでいた。
巨躯の持ち主は初老の傑物だ。
歳を重ねていっそう威圧感の増した眼光は鷹のように鋭く、老いという言葉とはまだまだ縁遠く見える。
雪のように白い髪は後頭部に向けて撫でつけられ、毛先はうなじのあたりで外向きに軽く跳ねている。
仕立てのいい和装に身を包んだその姿は、その目の異様な鋭さを除けば、地元の名士と紹介されても違和感がない。
しかし六十を超えて少し肉のついた体には、かつての抗争の痕が其処此処に残っている。
幾度もの熾烈な争いに勝ち抜き、大きな利権が絡む銀座の半分をそのシマに持つ武闘派集団・鴛鴦組の現組長。鴛鴦呉壱、大正の怪物だ。
鋭い目付きはそのままに、口元だけで笑いながら呉壱は目の前のローテーブルを指で叩いた。
硝子製の天板には、封筒が二枚並べられている。白いそれには、墨の薫る字で「絶縁状」と書かれていた。
「陽光うららかないい午後だぜ。なのにまた……絶縁状たァ穏やかじゃねえなあ。え? 吾妻よ」
「……申し訳ありません」
畏まって腰を折る吾妻に、呉壱は大柄な体を揺すり、ぐつぐつと低い声で笑った。
長年の抗争と過剰な喫煙量のために、呉壱の喉はいつしか潰れ、常に痰が絡んだかのような枯れた声しか出なくなった。しかしそれが、また一種異様な貫禄と凄みを醸し出している。
人払いをした部屋には、吾妻と呉壱の二人しかいない。
普段は若衆らで溢れかえっている手狭な部屋が、今日ばかりはいやに広く感じられる。
「お前ェらしくもねえ。俺がそんなどうでもいい言葉を聞きたがってると思うか……えぇ? どういう了見だって聞いてんだよ」
吐き出される言葉に合わせ、太い指が封筒を叩く。
「全て話します。ただ、組員として話せばきっと組に迷惑がかかる……親仁、お願いします。先にそいつを受け取ってください」
「そいつぁできねえ相談だ。ほいと出されてはいと気軽に受け取れる類のもんじゃねえぞ、こいつァよ」
「…………」
背凭れに深く身を沈めていた呉壱は、緩慢な動きで上半身を起こした。左腕を腿に乗せ、体重を前にかけると、下から吾妻を睨めつける。
どうあっても先に受け取りはしない。そういう構えと取っていいだろう。
元より、筋の通らない話だとは分かっていたことだ。目を閉じ、深く息を吸い込んでから、吾妻はその視線を真正面から受け止めた。
腹の底から絞り出すように、一息に吐き出す。
「――俺はこれから、安達泰人を殺します」
呉壱は動じない。
ただ、僅かにその白い眉を持ち上げて先を促しただけだ。
「奴を社会的に抹殺する必要があるんです。いま、すぐに。
警察にぶち込むなんて手ぬるいやり方じゃ駄目だ。奴ほどな力があれば、上層部を買収して檻を逃れることなど訳もねえ。それに……泣いて命乞いする奴の喉笛を、この手で掻き切ってやらなきゃ気が済まねえ」
「穏やかじゃねえなあ」
くっと喉を鳴らし、先程の言葉を繰り返す呉壱に、吾妻も苦笑を返す。しかし瞬時に顔を引き締めると、言葉を繋いだ。
「この世界に身を置いてから、命のやり取りは腐るほど経験してきました。奪いもしたし、奪われもした……。ですが、今回ばかりは相手が悪い。当然、刺し違える覚悟は出来ていますが、下手をすりゃあ親仁や組にまで迷惑が及ぶ」
「安達泰人……東京都知事、か」
腕を伸ばして両切り煙草を取ると、その一本を口に咥えた。すかさず吾妻がマッチを取ろうとするが、それを片手で制して自ら火を付ける。
うまそうに目を細めて、まずは一吸い。
口を歪めて白い煙を吐き出すと、厚い胸板を揺らしながら笑う。
「吾妻。お前ェ、いつから暗殺者に鞍替えしたよ」
「……誰の依頼でもありませんよ」
吾妻も思わず苦笑を返す。
「安達を殺るのは俺自身の意思です。だからこそ、組に迷惑は掛けられねえ」
「金絡みじゃねえ、ただの私情で安達家に戦争を吹っかけようってのか? 莫迦だ莫迦だとは思っていたが、突き抜けた莫迦だな。……で、もう一人の莫迦はどいつだ?」
その言葉を待っていたかのように扉が開き、ギンが部屋に進み入る。
血の跡はすっかり拭われていたが、頭には巻かれた白い包帯が痛々しい。左手にも白いものが見えるのは、倒れた際に酷く指を突いてしまったためだ。
ギンは吾妻の背後に立つと深く一礼し、同じように後ろ手に構えた。