四十 :急変
演説慣れした力強い声が、広い吹抜けに反響して蛇川の鼓膜を揺らす。
芝居がかった調子で歓待の言葉を述べると、安達泰人は階下をぎょろりと見下ろした。
ホール中央には、手錠を掛けられながらも屹然と背中を伸ばした男が立っている。
絶対的な権力者たる己を前に一切の気負いも見せず、挑みかけるような視線を返す男の姿に、安達泰人は満足げに鼻を鳴らした。
「マミの言う通り、随分な色男じゃないか。骨董屋を生業にしているなんて、どうせ枯れた老人か小肥りな偏屈おやじかと思っていたが、これはなかなか」
かつて谷田部の女房であった女――マミは、赤い唇をにこりと吊り上げてそれに答えた。いっそう艶を帯びたその目から、蛇川はマミと安達泰人の関係性を知った。
不意に、綿入れを着た男が進み出て、荒々しく蛇川の肩を掴んだ。わずかに表情を強張らせた蛇川に、男が下卑た嘲笑を浮かべる。
挑発するように至近距離で蛇川を睨みつけた後、男は手錠に鍵を差し込んだ。小さな金属音と共に、蛇川の両手が自由を取り戻す。
蛇川は持ち上げた両手をちらりと見、綿入れの男を無言で睨みつけた。男は相変わらずのにやにや笑いを浮かべたまま、用は済んだとばかりに後方へ下がる。
赤くなった手首をさすりながら、蛇川は安達泰人に視線を戻した。
烈火のごとく渦巻く怒りを皮一枚向こうに抑えこんだその視線は、凪いだ草原のように静かだ。
一度目を伏せ、気取られないよう深呼吸すると、蛇川は正面から安達泰人を見据えた。
「あんたが安達泰人か。思っていたより、随分と若いな」
「実年齢よりもずっと若く見られるんだよ。スポーツをやっているからね。運動はいいよ、君」
やはり、鍛えているらしい。件の新聞記事は、ただのごますりというわけでもないようだ。
「有益な助言をどうも。……随分な歓待ぶりだが、生憎僕には都知事様のご招待を受けるような覚えがない。
わざわざ千葉の山奥まで連れて来た目的はなんだ?」
その言葉に安達泰人をはじめ、周囲を囲む男女が目を見開く。息を飲んだマミが、わずかに体を後ろに引いた。
安達泰人は丸い目をして背後を振り返ったのち、手摺から身を乗り出すと階下の誰にでもなく問うた。
「……記憶違いでなければ、客人には目隠しをするよう言いつけておいたはずだが?」
「し、していましたとも!」
慌てて答えたのは綿入れを着た男だった。
運転手の男と目配せを交わし、頷き合うと、胸に手を当てて一歩前に進み出た。
「ご命令通り、車に乗せて一番に目隠しをしました! 勿論、目隠しに使った麻袋から外の様子が窺えないことは確認済みですし……銀座からここまで、車内では一言も口を利いていません。奴に与えた情報など、蟻の脳味噌ほどだってないはずです!」
「蟻ほどの大きさでなくとも、あんたの脳味噌分の情報があれば十分だ」
あからさまな侮蔑を含んだ蛇川の言葉に、綿入れの男が反射的に体を捻らせた。唸る拳が蛇川の頬を殴り抜く。
反動でよろめく蛇川のジャケットをマミが掴み、倒れないよう乱暴に引き戻す。
血が混じった唾を吐き捨て、蛇川は歯を剥き出しにして笑った。
「勘違いするな! 私の客人だぞ」
安達泰人の鋭い怒号が響く。綿入れの男は恨めしそうに蛇川を睨みつけながらも、歯を軋ませて後ろへ下がった。今度は蛇川が嘲笑を投げる番だった。
安達泰人が深々とため息をつく。
「……どういうカラクリか、聞かせてもらえるかな?」
数瞬、蛇川は躊躇した。
敵にはできる限り手の内を明かしたくはない。しかし、蛇川が隠し事をすれば、別室に連れて行かれたくず子がどんな目に遭うか分からない。
ある程度の予測はできるが確定情報がない、というこの現状は、蛇川のような男にとっては最悪といえた。
下手に頭が働くために、最悪の状況をいくつも予測してしまえる分、自分で自分を縛ってしまって身動きが取れなくなる。
安達泰人の言葉には伺うような響きがあるが、その実、蛇川に選択権はない。
小さく首を振ると、蛇川はため息と共に吐き出した。
「――サンカノゴイ」
遠目にも、安達泰人が白い眉を持ち上げたのが分かった。
「日本には数百羽しかいないとされる珍鳥だ。さっきその鳴き声が聞こえた。汽笛の音のような、一風変わった鳴き声だ。どれだけ急がせたかは知らんが、だいたいの移動時間を考えればおおよそ現在地の目星はつく。帝都近くでこの鳥が見られるのは、千葉の印旛沼辺りだけだ」
「……驚いたな、正解だよ」
安達泰人は大きな手を打ち叩くと、口髭から白い歯を覗かせて笑った。腕を広げ、愉快そうに肩を揺する。
「ここは印旛沼からそう遠くない、安達家の別荘だ。鳥の鳴き声から居場所を特定するとは、まるで小説の中の名探偵だな。やはり、君を招いたのは正解だった……」
「一つ答えろ。なぜまだ生かしている」
「まあ、そう生き急ぐな……。それよりも、腹の減り具合はどうだね? 君にはいろいろと聞きたいこともあるんだ。……愛らしいお嬢さんも交えて、晩餐会といこうじゃないか」
くず子の存在を示唆された途端、ぎり、と蛇川の口から歯軋りの音が漏れる。その様子をじっくりと観察していた安達泰人の目が、緩く弧を描く。
握りしめた蛇川の拳が、抑えきれない激情で小刻みに震えていた。