三十九:急変
廃ビルに吾妻が飛び込んで来たのは、それから二十分あまりが経過した頃だった。
鬼の形相で駆ける吾妻に、往来の人々が遠慮がちに好奇の目を向けたが、しかし構ってはいられない。二段飛ばしで階段を駆け上がり、寄木細工のプレートがかかった扉を引き開ける。
激しく揺れる扉に打ち付けられ、真鍮のベルが抗議するように音を鳴らした。
――ギンは新橋の事務所に連れ帰り、信頼できる医者に預けている。
ある程度大きい組には、電話一本で駆けつけてくれる医者がいるものだ。あるいは『かつて医者であった』後ろ暗い過去を持つ者が。
大事ない、とはその男の言葉だ。頭部への打撲ゆえに楽観視はできないが、受け応えもしっかりしているのでまず心配ないだろう。
問題はがらん堂の住人の方だ。
がらん堂の床に散乱する本や書類は、無造作に散らかっているように見えて実は違う。主人にしか到底分からない規則性をもって、あるべき場所に『保管』されているのだ。
その細かなルールまでは吾妻の知るところでなかったが、情報屋として何度も訪ねたことのある場所だ。おおよその配置は覚えている。
それが、何者かの足で乱されていた。
蛇川とくず子の姿もない。
「……くそっ!」
歯を食いしばり、吾妻は苛立ちを乗せて拳を振るった。固い拳が手近の剥製を打ち、激しい音を立てる。
荒々しい足音が去った骨董屋の床には、豚のような子犬のような剥製の首が胴体から離れ、哀しげに転がっていた。
どれくらいの距離をそうしていただろうか。
麻袋を被され、後ろ手に手錠をかけられた蛇川は、麻の目から細かく漏れ入る光を睨みつけていた。
脇には綿入れを羽織った男が控えており、匕首か拳銃か、分からないが何か物騒なものを蛇川に押し付けていた。
やがて車は山道に差し掛かったらしい。
ひどい振動が車輪を通じて座席を揺らす。
男は片時も物騒なものを蛇川の脇から離さなかったため、揺れるたびにそれが強く押し付けられてなかなかに痛い。
痛いながら肌を刺すほどでないところを見ると、どうやら押し付けられているのは拳銃らしかった。
幌を引き延ばした二台のフォードは、無言のまま走り続け、やがて予告もなく停まった。
麻袋を被せられたまま、強引に腕を取られて車から引きずり出される。
吹き付けてくる湿った風が、蛇川のジャケットの裾を揺らす。
緊迫した空気とはうらはらに、長閑にさえずる小鳥の声が聞こえてくる。風に乗って、ボォー……という音が切れ切れに流れてくる。
「子供は無事か」
悟られない程度に革靴で地面を探りながら、蛇川が低く問いかける。
足元は乾いた土に覆われており、確かにここが山中であるとの確信に至った。
「心配性だねえ。泣き疲れちゃいるが、死んじゃいないさ」
蓮っ葉な女の声が、蛇川の斜め後方から聞こえてきた。
蛇川は相手を刺激しないよう、努めてゆったりとした動作で声の方を振り返った。
「確かめさせてほしい」
「やれやれ、とんだ過保護だよ」
しばらくの間を置いて、小さな足音が近付いてくる。
最初は恐れるようにゆっくり近付いてきたものがやがて駆け足に変わり、細い腕が蛇川の足を抱き締めた。肉の薄い腿に、小さな頭が押し付けられる。
安心で、蛇川の体から僅かに力が抜けた。
かすかに金属音を鳴らして蛇川が手を揺らす。嵌められた手錠に一瞬息を飲む音が聞こえたが、すぐにくず子が飛びついてきた。
しっとりと汗ばんだ小さな手が、小刻みに震えている。
「……痛いところはないかね?」
優しく問いかけると、首を横に振ったらしい。おかっぱの髪が革手袋に触れてサラサラと涼やかな音を立てた。
怖いだろうに、恐ろしいだろうに、気丈に首を振るくず子に蛇川の顔が優しく緩む。
しかしそれも、もう一つの足音が近付いてくるまでだった。
女は大股に蛇川に歩み寄ると、その手に縋りつくくず子の腕を取った。
離すまいと抵抗するくず子の細腕を、舌打ち混じりに強く引っ張る。
耳を澄ませて様子を伺っていた蛇川が、威嚇するように唸った。
「子供には決して手を出さないと誓え。乱暴に扱うことも許さん。貴様らの目的は知らんが、そうすれば僕は何だってする」
「残念だけど、そいつはあたしが約束できる話じゃないね。いずれにせよ、あんたに大人しく従う以外の選択肢はないよ」
蛇川が麻袋から解放されたのはその後、屋敷内に足を踏み入れてからだった。
砂を踏んでいた革靴が、高い音を立てて木の床を鳴らす。音の反響具合から天井の高さが伺えた。
麻袋を取り払われてすぐ、蛇川は辺りを見回したが、そこにくず子の姿はなかった。どこか別室に連れて行かれたものと見える。
険しい目付きでくず子を探す蛇川に、女がふんと嘲笑を投げた。
屋敷の中は、蛇川の想像を超えて豪華だった。
主人の趣味だろうか、調度品から絨毯に至るまで、すべてが赤茶で統一されている。
木は光沢を帯び、毛足の長い絨毯は手触りもよく、どれもが一級品と見えた。
一応、蛇川は骨董屋の亭主だ。物の価値は、ひとめ見ればだいたい分かる。
予測通り天井は高く、頭の上には三階建ほどな高さの吹抜けが設けられていた。
吹抜けの二階部分、三階部分にはそれぞれ、それに面するようにバルコニー然とした空間があり、その最上階に人影があった。
赤茶に光る手摺に両手をかけ、体をせり出すようにしてこちらを見下ろしている。
恰幅のいい男性だった。
歳は壮年から初老に向かう途上と見えるが、日に焼けた肌からは、その年齢以上な力強さが感じられる。
白いものが目立つ髪は七三に撫でつけられており、同じ色の立派な髭が口元を飾っていた。
上等なダブルのスーツを着込んでいるが、そのボタンは左右から引っ張られ、今にも引き千切れそうだ。
押し包まれた肉が贅肉が筋肉かは遠目には判別できなかったが、恐らくは後者と思われた。
いつか読んだ新聞記事には、安達泰人の馬術、クレー射撃の腕はオリンピック選手級であると誉めそやす一文があった……
「待ちかねたよ、骨董屋の亭主」
両手を広げ、舞台役者のように天井を仰いだ安達泰人が言った。