三:童喰らう鬼
「今時珍しいな」
悠然と伸びるうだつを見上げて蛇川が呟いた。
迎えのタクリー号(自動車の通称)で向かった先、小澤邸は、純日本風の家屋だった。
江戸以前、わが国の建造物は大半が木造建築だった。そのため、数多の災害もさることながら、小さな家――つまり乾いた木材が身を寄せ合っているこの国において、最も恐れられたのが火事である。
火事の延焼を防ぐ目的で設けられるうだつは、ひと昔前は、ある程度大きい屋敷には必ずといっていいほど見られたものだったが、西洋の文化を取りこみ、石造りの建造物が増えた昨今はめっきり見かけなくなっていた。
ポケットに手を突っこんだ蛇川は、くるりとタクリー号に向き直ると怒声をあげた。
「吾妻ッ! まだかッ!」
「尻が……」
がなり声に急き立てられて、タクリー号から吾妻がまろび出てくる。
尻を押さえて呻くその姿は、和装から洋装へと様変わりしている。遠目にも上等な鼠色の上下を着こんだ吾妻は、前髪を上げ、長めの髪をうなじ辺りで一本に縛っていた。
「タクリー号の由来も知らんで乗りこんできたのか、莫迦め」
ガタクリ、ガタクリと騒音を鳴らしながら走るからタクリー号。当然、振動も大きい。
例の、蹴りだすような歩き方でさっさと玄関口へと向かう蛇川の後を、吾妻がひょこり、ひょこりと追いかけていった。
「……その男は?」
吾妻を顎で指し、不審そうな声をあげる小澤に、畳にあぐらをかいた蛇川は心底どうでもよさそうに「助手だ」と吐き捨てた。
「それより、あんたの女房と息子はどうした。同席するよう言っておいたはずだが」
広い和室に、ひとり坐する小澤を詰るように蛇川が言う。
しかしもったりと生えた耳毛に遮られたか、その耳には届かなかったようで、小澤は警戒に満ちた視線を吾妻の全身に走らせている。
体型が隠れやすい着物とは違い、スーツは肌に密着する。
鍛え上げ、鋼のように硬くなった吾妻の筋肉が、布を通して威圧感を与えてくる。
屋敷に入って以降、吾妻は一言も喋っていない。
折り目正しく正座し、やんわりと握った拳を腿に乗せた吾妻の顔には笑みが貼りついている。
しかし、それは定食屋で見せていたような人好きのする笑顔ではない。飢えた獣が獲物を前にして見せるような、恐怖を駆り立てる類の笑顔であった。
チッ、チッ、とどこかから秒針が進むような音がする。
それが不機嫌極まりない骨董屋主人の舌打ちによるものと気付き、ようやく小澤は蛇川へと視線を戻した。
「……二人は、来ない。命を狙われているのは私だ。関係ない者を無闇に巻きこんで、いらん心配をかける必要はなかろう」
小澤が言い終わらないうちに、蛇川の口元から耐えがたい音が漏れた。歯軋りの音だ。
片唇を引きつらせながら「いいか、」と唸るように出した声は、ぞっとするほどの暗さをはらんでいた。小澤の肩がびくりと跳ねる。
「二度と言わんからよく聞け」
「ひッ……」
「あんたの、女房と、息子を、連れてこい。ここへ、今すぐにだ……手遅れになって、ふたりを喪いたくなけりゃあな」
「や、安田……ッ!」
一言ずつ、怒気を噛み砕きながら捻り出す蛇川の迫力に圧され、小澤が悲鳴のような叫び声をあげた。隣に控える吾妻でさえ、産毛が逆立つほどの凄みだ。小澤ごときがなんで堪ろう。
呼ばれた男は一礼すると、足早に部屋を出て行った。
そう時間を空けず、小澤の妻子を伴った男が戻ってきた。その後ろに五人の男が続く。
着流し姿の男たちは、背は低いがいずれも屈強な体つきをしている。懐からこれ見よがしに匕首を覗かせている者などもいた。
ぞろぞろと部屋に入ってきた着流し連中を一瞥し、吾妻はふんと鼻を鳴らした。
蛇川は、連れられてきた少年に鋭い視線を向けた。
「あんたが息子の正憲だな」
安田に促され、小澤正人の横に正座した少年は、怯えた様子で父親を見た。小澤が舌打ち混じりに頷いてみせると、か細い声で「そうです」と答える。
吾妻の情報によれば今年で十歳を迎えるはずだが、青白い顔色のためか、歳よりも幾分幼く見えた。
「息子の名まで調べたのか……なぜだ?」
「必要だからだ。そしてあんたが……」
正憲の隣に正座し、その肩に手を乗せた女を見て蛇川は言葉を切った。
女は若く、美しかった。
艶のある黒髪は胸元あたりまで伸び、毛先は緩やかな弧を描いている。椿を散らした意匠の着物に身を包んだ女は、少し吊り気味の目で蛇川をじっと見つめ返した。
「女房の、充子でございます」
黙り込んだままの蛇川の言葉を、充子が継ぐ。
呆けたように口を開いたまま固まる蛇川を見、小澤はにやりと唇を歪めた。
「好い女だろう」
「あんたが……女房の、充子――」
「はい」
「――では、ないな」
なに? と声を上げる小澤をよそに、蛇川は懐に手を突っ込んでいる。
「何者だ、あんたは」
瞬間、蛇川の手から、懐から抜き出した何か――小さな硝子瓶が飛んだ。
剃刀のような鋭さで飛ぶそれは、悲鳴を上げる充子の足元の畳に当たって砕けた。
そこから薄紫の煙が立ち昇ったかと思うと、一寸遅れて上品な花弁の薫りが漂い出した。
「これは……白梅香!? 骨董屋、なんのつもりだ!」
袂で鼻を覆った山内が、顔を顰めて怒号を上げる。
安田に連れて来られた着流し連中がさっと立ち上がる。間を置かず吾妻も腰を浮かせた。
片膝を立て、半身を捻ってこちらを睨むだけに留めた吾妻に、しかし男たちは体が強張るのを感じ、動けない。心臓だけが、その鼓動をいやに速めていく。
「なに、僕が特別に調合したものだ。毒ではないさ……生きた人間にとってはな」
「何を言って……」
怒りと狼狽とで真っ赤になった小澤の言葉は、しかし濁った音にかき消された。
充子が身を震わせ、喉を絞るようにして咳きこんでいたのだ。
ひときわ激しく咳きこんだかと思うと今度は仰け反り、「ヒィーーーッ」と引き攣るような奇声をあげた。
掻きむしったのか、喉には幾本もの赤い筋が走っている。眼球がぶるぶると震え、黒目がぐるりと天井を向いた。
「あ、充子!? いったい……」
「お母さん!」
小澤正人の声を切り裂くように、正憲の甲高い悲鳴が重なった。
膝立ちになった母親の肩に、細い腕ですがりつく。血走った充子の目が正憲を捉えるのと、蛇川が叫ぶのは同時だった。
「莫迦ッ! 離れろ!」
唇の端に泡を吹きながら充子が両腕を伸ばす。その手に喉を突かれ、正憲が声のない悲鳴を上げた。
赤く染められた爪が、正憲の白い喉に食いこんでいく。体幹を捉えるような鈍い苦しみと、愛する母に傷付けられた衝撃とに、正憲の顔がたちまち青褪めていく。
両手を口元にやり、革手袋を噛む蛇川の脇を、さっと大きな影が通り過ぎた。吾妻だ。混乱と恐怖で動けない着流し連中を放り出し、一足飛びに充子へと駆け寄って、形のいい頭へと右手をかけ――駆け抜ける勢いそのまま、充子の上半身もろともを畳に打ちつける。
激しい衝撃で畳が砕け、その割れ目に黒髪がめりこんだ。
「充子! お、お前、妻になんということをっ!」
「現実を見ろや、糞ジジイッ!」
着地と同時にすぐさま体勢を整えた吾妻が、ドスの効いた声で叫ぶ。腹の底から飛び出た声が、びりびりと障子紙を揺らした。
「これがてめェの女房に見えるか!? てめェの女房はもう、死んでンだよ!」
あらぬ方向に首を曲げた充子が、からくり人形のように起き上がる。
折れて自由の効かなくなった首ではなく、体全体を捻り、尚も己を見つめてくる母親の姿に、正憲は「ひッ」と恐怖の声を漏らした。それを庇うように立つ吾妻に向かい、十本の赤い爪が舞う。
その頬を、横から蛇川の拳が殴り抜ける。
吾妻の拳打の半分ほどな威力もないそれは、しかし充子の頬骨を砕いた。
右の眼球がその衝撃で半ば飛び出て、小澤の絶叫が室内に満ちる……