三十八:急変
安達泰人という男の器を、蛇川は見誤っていたらしい。
人の顔の皮を剥ぐという残酷さ。
事が露見したとみるや、谷田部の女房という駒を抱き込む迅速さ。
万が一にも女房が裏切らぬよう、息のかかった男に親戚を騙らせ、そばで監視させる周到さ。
それらはいずれも蛇川の想像を超えていた。
胸に生じたざわめきは、今や地響きにも似た大きな揺れへと変わっていた。車輌の床を、苛立った革靴が何度も蹴りつける。
女房がいつ、なぜ安達泰人に魂を売ったかまでは分からない。
だがきっかけはどうあれ、件の男と共謀し、女房はギンを殺そうとした。もう一人の命を差し出すことに、どれほどか躊躇するとも思えなかった。
住み慣れた骨董屋は、今や強大な獣の口中にあるといえた。くず子だけでもよそへ移す必要がある。
投げつけるようにして御者に運賃を支払うと、蛇川は銀座の街を駆け出した。
背後で若い御者の怒鳴り声が聞こえたが、構っている余裕はない。
時刻は既に正午へと差し掛かっている。碁盤の目状の道は人で溢れている。
人混みを掻き分け、泳ぐようにして道を急ぐ蛇川を、往来の人々はあるいは奇異の目で見、あるいは舌打ち混じりに睨みつけた。しかし蛇川は止まらない。
蛇川には目的があった。
くず子の存在だけは守らねばならない。
その目的のためには、自身を含め、誰が傷つこうが構わない。
必要であれば暴力に訴えることも厭わない。
蹴り出すような蛇川の足は、しかし廃ビル近くの角を曲がった途端にぴたりと止まった。
……遅かった。
安達泰人の冷酷な牙は、既に蛇川の首元を捉えていた。
廃ビルの前には、寂れたビルには不釣り合いな黒塗りのフォードが二台停まっていた。
廃ビル前に停められたT型フォードは、どちらも黒い幌を引き伸ばして周囲からの視線を避けていた。
エンジンはかかったままになっており、到着してからそう時間も経過していないと思われる。
もう少し早ければ、あるいは。蛇川は歯噛みしたが、今更悔やんでも仕方ないことだ。
瞼を閉じ、ひとつ深呼吸するとゆっくりと目を開ける。
苛烈な視線をくれると、フォードへと大股に歩み寄った。
蛇川の姿を認め、中から綿入りの羽織姿の男が出てくる。その後に谷田部の女房が続いた。
挑発的に笑うその姿を目にして、改めて蛇川はため息をついた。
侮蔑を含んだその笑みは、誰かに脅されて言いなりになっている被害者の面ではない。この女は安達の牙の一本だ。
「……驚いたよ。あんたには完全にしてやられたな」
男物のとんびコートを肩にかけた女房は、紅を引いた唇を歪めて妖艶に笑った。
艶髪は再び美しい島田髷に結い直されている。化粧のためだろうか、憔悴しきってがらん堂を訪れた女と同一人物にはとても見えなかった。
「すまないねえ、骨董屋さん。あんたの顔は結構気に入ってたんだけど。惜しいことだよ」
谷田部の女房として現れた時とはまるで違う、蓮っ葉な口調で女が言う。
「てっきり、亭主を思うあまりに窶れきった女房だと……あれが演技とは畏れ入る。舞台役者にでもなった方がいいんじゃないか」
「ふふ。初心な女学生時代には演劇に憧れたこともあったさ。けどね、残念ながらあれは演技じゃあない。窶れた理由が違うだけでね」
蛇川が片眉を上げると、女房は艶っぽくうなじを撫で上げた。
「怖かったのさ。逃げ出したかったのよ。谷田部がどうなろうが知ったこっちゃなかった。だけど先生がどうしても谷田部を正気に戻さなきゃならないって言うからサ……。
あの男の背に、奇妙な瘤があることには知っていたさ。毎夜、恨み節を垂れるんだもの……あんな気味の悪いものと一緒にいちゃあ、誰だって窶れるってものよ」
誘うような視線で蛇川を見やると「だからあんたには感謝してるんだよ」と女房は笑った。
「まさか先生の存在に気付いてしまうとは思わなかったけど……。無知で哀れな女と見くびったのが運の尽きだね」
女に細腕を引かれ、フォードから降りてきた少女の姿を認めた途端、蛇川の顔が醜悪に歪んだ。
鼻に皺を寄せ、威嚇する獣のように歯を剥き、唸る。
「もしも命と引き換えに昨日の僕に助言ができるなら、喜んでこの心臓を差し出すよ。あんたのその面をめちゃくちゃに出来るならな」
「おお、恐ろしい。平塚らいてうの有名な言葉を知らないかい? 『原始、女性は太陽であった』……お天道様に手を上げようとは、つくづく身の程知らずだよ」
「その子を離せ」
顎を上げ、気持ちよさそうに演説していた女房は、静かな怒りに満ちた声に遮られて不愉快そうに細眉を寄せた。
小さく舌打ちするとくず子の腕をぐいと引き寄せ、その細腕を捻りあげる。泣き濡れたくず子の顔に苦痛の色が浮かぶ。
蛇川の口元から歯軋りの音が漏れ、その顔が烈火のごとき怒りに歪んだ。
女房は満足げに笑うと、前に停まったフォード車を顎で示した。
「乗りな。妙な気を起こしたらこの子がただじゃ済まないよ」
女房と向かい合ったまま、示された車に目を向ける。黒い外套に中折れ帽姿の運転手が、口元を歪めて蛇川を見ていた。
再び視線を女房へ戻すと、緩やかな弧を描いた目を睨み据える。
「少しでもその子を怯えさせてみろ……たとえ首だけになろうとも、貴様の喉笛を噛み切ってやる」
「お熱い求愛だこと」
蛇川はくず子に向き直る。
散々泣いたらしく、腫れぼったい瞼は赤くなっていたが、危害を加えられた様子はない。
頰に涙の道を幾筋もつけたくず子が、しゃくり上げながら蛇川を見る。うまく、笑顔で応えられただろうか。
いくら従順な態度を示したところで、女房はくず子を離す気はないらしい。ならばせめて、泣き疲れたくず子がすぐにも眠ってしまうことを願おう。
蛇川はひとつ頷いて見せると、幌を捲って待つフォードへと乗り込んだ。