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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
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三十七:急変

 朝の路面電車はいい。

 誰しもが明確な目的を背負い、黙々とそれに向き合っている。


 無駄口を叩く者はおらず、静かだ。しかしある種の緊張感に満ちている。射し込む朝陽を反射して、光る埃さえも清々しい。


 蛇川にも目的があった。

 腕を組み、座席で揺れに身を任せながら、沈沈と思考にふける。


 どうやって谷田部を尋問するか。


 安達泰人をどう追い詰めるか。


 いかにして後顧の憂いを取り除くか……


 思考は尽きない。しかしさしもの蛇川をもってしても、到底答えには至らない。答えを導くには、あまりに情報がなさすぎる。


 それに、妙に胸がざわつく。


 かつてない強大な敵を前にして、不安や、恐れがないとは言い切れない。くず子にまで何かあってはと、万が一の可能性を考えるだけで鳥肌が立つ。


 蛇川は小さく首を振った。谷田部から聞き出すべき内容へと的を絞り、再度思考の渦へと身を投じる。



 騒動から一夜が明けた。


 春川という正義に満ち溢れた、若く、無謀な青年の魂が救われたことに、しかしまだ帝都は気付いていない。今後知ることもないだろう。

 ただ昨日と変わらないうららかな陽光が、舗装されていない道路に降り注いでいる。


 昨日は女房に付き従って歩いた道を、一人、足早に辿る。


 ギンが谷田部家を見上げていた場所では、日向ぼっこ中の三毛猫が伸びをしていた。

 どこまでも長閑(のどか)な風景だった。



 玄関ドアを三度叩き、控えめに声をかける。

 目を伏せ、ドアに当てた拳に額を押し付けて深呼吸を一つ。


 昨日の取り決め通りだ。合図があった時はギンが、それ以外の来客には女房が対応する手筈になっている。

 しかし、中の様子に耳を澄ませてみるも反応がない。落ち着けたばかりの呼吸がやにわに早まる。


 先ほどよりも心持ち強く、蛇川は再度合図を繰り返した。

 ――やはり、応対に向かう足音さえも聞こえない。


 蛇川はドアノブに手をかけた。施錠されていないその手応えに、蛇川の顔が険しさを帯びる。


 音を立てないようドアを開け、わずかな隙間に顔を突っ込む。カーテンが閉ざされたままなのか、家の中は外よりもずっと暗い。


 半身になり、体は外に残したままで様子を伺う。

 しかしふと鼻をひくつかせると、途端に慎重さをかなぐり捨て、乱暴にドアを開け放つなり玄関内へと飛び込んだ。よく利く蛇川の鼻が、うっすらと残る炊事のにおいに、わずかな鉄臭さを嗅ぎ取ったのだ。


 鼻に付く臭気の発生源、台所前にできた血溜まりの中に、うつ伏せに倒れる男があった。


 朱に染まった散切り頭に、土足のままで走り寄る。


「ギンっ!」


 後先のことを考えられるだけの冷静さはなかった。ぴくりとも動かないギンの側に屈み込むと、その肩を荒々しく掴んで引き起こす。


 頭部からの出血はすでに止まっている。固まった血溜まりに引っ張られ、色素の薄い髪が数本抜けた。


「おいっ、しっかりしろ!」


 二度、三度と肩を揺すると、眉を顰めてギンが呻いた。その声にようやく落ち着きを取り戻し、蛇川は小さく息をついた。


 改めてギンの全身を観察する。後頭部からは激しい出血の形跡が見られたが、それ以外にも数箇所、殴打の跡が散見された。スーツの背には靴の形に汚れが残っており、その大きさから男物と推察された。


 血溜まりの脇には焼き物の破片と傘が数本散らばっている。

 昨日谷田部家を訪れた際、長七たたきの土間の隅に陶器の傘立てがあったことは記憶している。破片の模様は、記憶の中のそれと一致していた。

 硬さと鋭さがある磁器に比べ、陶器は重厚さにおいて勝る。ギンを襲った人物が、明確な殺意をもってそれを凶器に選んだことは明らかだった。


 舌を打ち、蛇川は家の奥へと足を向ける。


 昨日、蛇川と谷田部が争った惨状はそのままに、夫妻の姿だけが忽然と消えていた。




 幸い、自動電話の線は繋がったままだった。


 交換手に伝え、新宿にある鴛鴦組事務所に繋げさせる。

 煩わしい雑音に舌打ちを繰り返していると、しばらくして電話が繋がった。運がいいことに、応対したのは吾妻だった。事情を知らない若衆らと、若頭を出せ、いや出さぬと押し問答する手間が省けた。


 ギンのいる台所のほうで物音がした。

 首を伸ばしてそちらを伺いながら、現状だけを手短に伝える。

 電話口から漏れる呼気からは吾妻の動揺が知れたが、ギンを引き取りに来るよう場所を伝えると「分かった」とだけ短く返し、すぐに電話が切れた。


 足早に台所へと戻ると、持ち上げた上半身を捩り、ギンが荒い息を吐いていた。


 脇に嘔吐のあとが見える。無理に体を動かしたらしい。

 あるいは蛇川が肩を揺すぶったのがいけなかったのかもしれないが、それは置いておく。


 口元を汚したまま、ギンがぎしりと歯を軋ませた。


「す、すんません……こんな、情けないザマ」


「何が起こった」


「女房です……安達泰人に内通してるんは、谷田部やのうて女房の方です」


 一息に吐き出してしまうと、ギンは喉を詰まらせながら咳き込んだ。口の中を切っていたのか、血混じりの唾を吐く。


「親戚を騙る男もグルや。今朝、男が訪ねて来おって……あの(アマ)、中がこの状態やから男を追い返す言うて出て行きおったんですけど、ワシの目を盗んでこっそり引き入れてやがったらしい……」


「傘立てで殴ってきたのは男の方か」


「傘立て……ああ、道理で……」


 まだ視線の定まらない目で、ギンは辺りを見回した。投げ出された傘が己の血で汚れているのを認め、頭を抑えて唸る。


「いや、詳しくは分かりませんが、恐らくは。女房と話しとったら、不意に後ろから……くそっ」


 忌々しげに舌を鳴らし、ギンが床を殴りつける。その拳は痛ましいほどに弱々しい。

 蛇川は短く鼻を鳴らした。


「殺されなかっただけましだな。ここは台所だ。傘立てなどより、よほど鋭利な凶器がすぐ手に入る」


 僕なら確実にとどめを刺しておくがね。ことも無げに呟く蛇川に、ギンがくっと自嘲気味に笑った。


「ほんま……旦那みたいなお人が堅気なんは惜しいことや。

 幸い、包丁はここにはあらへん。谷田部がおかしゅうなり出した頃に、何かあっては……と女房がどこぞへ隠したらしいんですわ。奴ら、旦那が来る前にと急いどったやろうし……結果的には助かりましたが……」


「奴らがどこへ向かったかは分かるか」


 ゆっくりと首を横に振るギンに「そうか」と短く呟いて、蛇川は立ち上がった。得られる情報が尽きた以上、ここに留まる理由はない。




 蛇川は往来へ飛び出すと、ちょうど通りがかった馬車を呼び止めた。


 路面電車は銀座まで緩やかに迂回している。

 悠長に遠回りの道を選べるほど、事態は穏やかなものでなかった。

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