三十六:陽動
「春川と谷田部が追ってたヤマゆうんは、安達泰人絡みか……。こらまた、えらい大物が出てきましたなァ」
腕を組んだギンが、長々と溜息をつく。
もともと、安達家は豪商だ。
金はある。しかし力を持たない。だから、力を秘めた若者を支援するためにその金を使った。
明治維新を成し遂げた志士の中には、安達家に拾われ匿われて、時を伺っていた者が少なくない。
直接的ではないが、間接的に明治維新に貢献したその功績を讃えられ、華族の身分を賜ったが、しかし今ほどの権力を有するようになったのはつい近年のことだ。
安達家はどのようにして力をつけたか。
そのやり方は実に単純だ。見込みある男を身内の中から選び出し、重要な機関に次々と送り込む。
適所に配属された男達は、時に安達家のバックアップにも助けられつつ、その多くが実力で幹部への階段を登っていく。
男達の選出と、それぞれの能力を最も引き出せる配属先の見極めは、安達泰人が主導するようになってその精度を大きく高めたという。
事実、安達泰人が当主となった頃より、安達家の礎はいっそう盤石さを増している。
「奴の手腕も相当なものと聞くが、なにより、敵は天下の安達家だ。黙って目を瞑っておけばいいものを……正義感に突き動かされてよほど深追いしたんだろう。そのうち、一人では捌ききれずに谷田部へと相談した……」
「安達泰人の悪事を記事にできたら、相当な反響があるはずや。せやけど、得られるものが大きい反面、失うものもまたデカい。谷田部はその二つを天秤にかけて、失う恐怖を優先させたわけでんな」
くぐもった悲鳴を上げ、もがき続ける谷田部を冷ややかな目が見下ろす。頷く蛇川が続きを請け負った。
「谷田部の判断はある意味で正しい。仮に記事を纏め上げられたとしても、それが世に出回ることはないだろう。安達泰人は全力で潰しにかかるだろうからな」
「同感です。……谷田部が馬鹿な正義漢やったら春川と共に闘ったやろうが、奴さん、ただの馬鹿な常識人やったらしい」
蛇川はおもむろに立ち上がると、膝をこきりと鳴らした。
不意に自由を与えられ、上半身を反らして起き上がろうとした谷田部だったが、その横っ面を蛇川の右足が蹴り抜いた。
鈍い、嫌な音が響き、谷田部はそれきり動かなくなった。
へえ、とギンが感心したように声を上げる。
「蛇の旦那、あんたほんまに堅気でっか? 相当えぐいことしはるけど」
「莫迦にするな。多少、人よりも選択肢に幅があるだけだ」
ギンは肩をすくめて見せると、細い眉を下げて少し笑った。それで、と言葉を繋いで顎をしゃくる。
「これからどないします? 警察に突き出しますか?」
「それは出来ん。安達家が幅を利かせているのは主に財政界だが、警察組織の幹部クラスに就いている者も少なくはない。そうでなくとも、息がかかった者がいるはずだ。警察署などに突き出せば、もし奴が真実を吐く気になったとしても、その前に闇へ葬り去られる……例のちんけなヤクザ者のようにな」
「下田が殺されたのはそういうわけですな、自害に見せかけて……」
「……こうなった以上は、谷田部から安達泰人の情報を絞り上げる。春川が成仏した今、谷田部はじきに正気を取り戻すだろう」
「素直に話しますやろか?」
「何だって脅しようはあるさ。強大な権力よりも恐ろしく、抗いようのないものがこの世にはあると、身をもって知ったばかりのことだしな」
愉快げに喉を鳴らし、「ほんま、えっぐいわァ」とギンが笑った。
「しかし、旦那も春川と同じでんな」
片手をポケットに突っ込み、蛇川はギンを睨め上げた。
鋭い視線にも動じることなく、ギンは畳の上で伸びる谷田部の背を見ている。その目にはどこか哀れみの色が見えた。
「春川と同じや。安達泰人いう強敵を前にしても、引き返すいう道は選ばへん」
「勘違いするな。僕が動くのは正義のためなどではない。下手に引き返してしまえば逆にこちらがやられるからだ。
谷田部が安達泰人に内通している以上、第二の春川となり得る人物の登場はじきに奴の耳にも入る。互いの保身のためにと言われれば、女房はいずれ、谷田部にがらん堂の存在を明かすだろう」
「ま、それもそうでんな。
……いずれにせよ、奴を見逃すことが出来んのはワシも同じや。旦那。谷田部の尋問、手伝わせてください」
「あんたが土俵に上がる必要はないだろう。今日ここへやってきたのはがらん堂の亭主と、素性の知れん助手だけだ。あんたの身元が割れることはまずない」
ギンは右手をずいと前に出すと、人差し指を残して他の指を折った。
「動機が違いまっせ、旦那。ワシが動く理由は自衛のためやない。安達泰人のやり方が許せんだけや。
安達はきっと、谷田部をも殺すつもりやったに違いない。春川の顔の皮を剥いで時間を稼いだんは、その間に谷田部を締め上げ、不安要素を潰した後に口を塞いでしまおういう算段やったからやと思うんです。なんやったら、谷田部を春川殺しの犯人に仕立て上げる手立てもしとったやもしらん」
蛇川は驚きに目を見開いた。ギンの思考は蛇川のそれとまるで同じだったからだ。
頭がいい、という吾妻の評価は伊達ではなかった。
「いわば、谷田部は捕虜や。 味方を売り、白旗を上げてまで擦り寄ってきた降伏兵や。そいつをなんの慈悲もなく始末しようやなんて趣味が悪すぎますわ。ワシの仁義とは相容れん」
「仁義、か……賢くない生き方だな」
「ましかし、それが極道者っちゅうやつですわ」
にっと笑う傷の入った顔をまじまじと見つめていると、ギンが不思議そうにつるりと顔を撫でた。
「なんや変なこと言いました?」
「いや。……あんた、吾妻に似てるよ」
「あはっ」
照れたように頬をかき、ギンが薄い肩を揺らす。
可笑しな話だ、と蛇川はため息混じりで吐き出した。
「民を守る立場の人間が個人の私利私欲にまみれ、暴力の象徴たる極道者がそれに憤っている」
「旦那、それはちゃいまっせ。確かにワシらは暴力の塊かもしらんけど、極道者の暴力いうんはそもそもが民を守るための暴力や。
法や規則の庇護から漏れてしもた奴らが、同じ外れ者同士で助け合う……それが本来の極道者の姿です。極道者っちゅうんは、半端なヤクザ者やゴロツキとは覚悟の程が違うんですわ」
「ま、僕には理解できんがね。一種の浪漫というやつか」
「ロマンかマロンか知りませんがね、ひとつご承知おきくださいや」
「分かったよ」
ただの情と義理との違いはよく分からなかったが、蛇川は曖昧に頷いた。
結局、谷田部家にはギン一人が残ることとで落ち着いた。
すぐに谷田部の正気が戻るとは思えなかったし、なによりくず子が待っている。
くず子の存在についても吾妻から説明を受けているのか、ギンは二つ返事で頷いた。
「また明日の朝に来る。谷田部が正気を取り戻したことは外に漏らすな」
「心得とります。例の親戚の男が訪ねて来たら、なんぞ言い訳でもさせて追い返しますわ」
言いながらギンが顎をしゃくる。その先には、伸びた谷田部の体を拭いてやる女房の姿があった。
さすがに詳細までは伝えていないが、谷田部に取り憑いていたモノは無事に祓われたこと、またそれを聞きつけられたら良からぬ事が起こるだろうことだけは説明している。
神妙に頷く女房は、夫の恢復が嬉しかったか、安堵の表情で涙をこぼした。
無駄を嫌う蛇川は、過去の「たられば」を忌避する。
無駄の極みと思っている。
その蛇川でさえ、後日、この時のことだけは激しく後悔する羽目になる。
もしもあの時、谷田部家を辞さなければ。
ギン一人だけに任せさえしなければ、と。
恐るべき狐がこの中に潜んでいようとは、さしもの蛇川もこの時はまだ気付いていなかった。