三十五:陽動
「お……ぉ……」
谷田部の背の大きな人面瘤が、呻き声を上げながら身を捩る。
口に当たる部分の歪みを縦に伸ばし横にすぼめ、どうにか言葉を紡ごうとする様は恐ろしくもどこか滑稽で、おどろおどろしい声を上げる以外は特に動きもしない人面瘤に、ようやくギンの肩から力が抜けた。
「なんや、お口の体操でもしとんのかい」
「黙って見てろ」
谷田部が暴れ回ったために、部屋内は荒れに荒れている。
割れた花瓶や木の屑が散らばる畳は谷田部の血で汚れ、蛇川がぶつかった箪笥は扉が壊れ、土壁に空いた大穴からは隣の部屋が見えている。
いつしか日は暮れ、廊下から臨む外の景色はすっかり闇の中に沈んでいる。
並んで植えられた季節の木々が、うっすらとそのシルエットを浮かび上がらせている。
谷田部の背に取り憑いた人面瘤、鬼と化した春川がぶるりと震えた。
「ぅ、……う、た」
谷田部の首根を押さえたまま、蛇川が静かに様子を見守る。その肩越しにギンが覗き込んだ。
「きょくちょ……う、うらぎ、た……」
「『裏切った』……谷田部が、春川を? ……谷田部は、完全には被害者側の人間やないゆうことか?」
目線は春川から逸らさず、蛇川はひとつ頷いた。
薄々は勘付いていたことだ。でなければ、春川がどうして谷田部に取り憑きなどするだろう。
「お前達は二人で事件を追っていたんだろう。何を追っていた?」
「お……ぁ……あ、ち……」
再び蠢きだした人面瘤に、ギンが辟易して声を上げた。害はないと分かっていても、見ていて気持ちのいいものではない。
「ち……あ、だち……
……あだち、やすと……」
「何ッ!?」
思わず蛇川が身を乗り出す。首を押さえつけている膝に体重がかかり、哀れ谷田部は潰れた蛙のような声を上げた。
「おいっ! あんた今、安達泰人と……」
蛇川はその背に取り付いたが、人面瘤は破れた紙風船のように萎んでいく。
赤黒く変色し、木の皮のように硬化していく人面瘤は、もはや呻き声すらも上げなかった。顔のように見えていた歪みは、ただの深い皺へと戻る。
最後に小さく空気の抜けるような音を立てた頃には、赤黒いそれはただの大きな瘤でしかなかった。
蛇川はため息をつくと、掴んでいた谷田部の背を離した。
「……志の低い若造だ。仇敵の名前を呟いただけで満足しやがって」
斬ってやるまでもなかったか。そう呟くと、蛇川はゆるゆると息を吐き出した。張っていた肩を落とし、乱れた髪を掻き上げる。
かたりと小さな音がして、二人は弾かれたように振り向いた。
背後では相変わらず伸びたままの女房が倒れている。白い手が床に落ちていて、どうやら胸元から滑り落ちたらしかった。
ギンが蛇川に向き直る。
「旦那……今、春川の野郎は……」
「ああ。確かに安達泰人と言った」
実物を見たことはないが、その名前だけは帝都中の子供までもが知っている。
安達泰人。
明治維新の立役者となり、明治の世では勲功華族として財政界に確固たる地位を築いた名門・安達家の現当主にして、帝都東京の都知事を務める傑物だった。




