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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
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三十五:陽動

「お……ぉ……」


 谷田部の背の大きな人面瘤が、呻き声を上げながら身を捩る。


 口に当たる部分の歪みを縦に伸ばし横にすぼめ、どうにか言葉を紡ごうとする様は恐ろしくもどこか滑稽で、おどろおどろしい声を上げる以外は特に動きもしない人面瘤に、ようやくギンの肩から力が抜けた。


「なんや、お口の体操でもしとんのかい」


「黙って見てろ」


 谷田部が暴れ回ったために、部屋内は荒れに荒れている。


 割れた花瓶や木の屑が散らばる畳は谷田部の血で汚れ、蛇川がぶつかった箪笥(たんす)は扉が壊れ、土壁に空いた大穴からは隣の部屋が見えている。


 いつしか日は暮れ、廊下から臨む外の景色はすっかり闇の中に沈んでいる。

 並んで植えられた季節の木々が、うっすらとそのシルエットを浮かび上がらせている。


 谷田部の背に取り憑いた人面瘤、鬼と化した春川がぶるりと震えた。


「ぅ、……う、た」


 谷田部の首根を押さえたまま、蛇川が静かに様子を見守る。その肩越しにギンが覗き込んだ。


「きょくちょ……う、うらぎ、た……」


「『裏切った』……谷田部が、春川を? ……谷田部は、完全には被害者側の人間やないゆうことか?」


 目線は春川から逸らさず、蛇川はひとつ頷いた。


 薄々は勘付いていたことだ。でなければ、春川がどうして谷田部に取り憑きなどするだろう。


「お前達は二人で事件を追っていたんだろう。何を追っていた?」


「お……ぁ……あ、ち……」


 再び蠢きだした人面瘤に、ギンが辟易して声を上げた。害はないと分かっていても、見ていて気持ちのいいものではない。


「ち……あ、だち……


 ……あだち、やすと……」


「何ッ!?」


 思わず蛇川が身を乗り出す。首を押さえつけている膝に体重がかかり、哀れ谷田部は潰れた蛙のような声を上げた。


「おいっ! あんた今、安達(あだち)泰人(やすと)と……」


 蛇川はその背に取り付いたが、人面瘤は破れた紙風船のように萎んでいく。


 赤黒く変色し、木の皮のように硬化していく人面瘤は、もはや呻き声すらも上げなかった。顔のように見えていた(ひず)みは、ただの深い皺へと戻る。


 最後に小さく空気の抜けるような音を立てた頃には、赤黒いそれはただの大きな瘤でしかなかった。


 蛇川はため息をつくと、掴んでいた谷田部の背を離した。


「……志の低い若造だ。仇敵(きゅうてき)の名前を呟いただけで満足しやがって」


 斬ってやるまでもなかったか。そう呟くと、蛇川はゆるゆると息を吐き出した。張っていた肩を落とし、乱れた髪を掻き上げる。


 かたりと小さな音がして、二人は弾かれたように振り向いた。

 背後では相変わらず伸びたままの女房が倒れている。白い手が床に落ちていて、どうやら胸元から滑り落ちたらしかった。


 ギンが蛇川に向き直る。


「旦那……今、春川の野郎は……」


「ああ。確かに安達泰人と言った」


 実物を見たことはないが、その名前だけは帝都中の子供までもが知っている。



 安達泰人。


 明治維新の立役者となり、明治の世では勲功華族として財政界に確固たる地位を築いた名門・安達家の現当主にして、帝都東京の都知事を務める傑物だった。

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