三十四:陽動
「ひいぃーーーッッ!」
恐怖に顔を歪めた女房が、引き攣った悲鳴を上げる。
狂ったように暴れる十本の爪を避けながら、ギンが苦労してその腕を掴んだ。刹那、素早く顔を右に傾ける。なおも激しく暴れる指がその顔の皮を薄く剥ぎ、数滴の血の玉が飛び散った。
ギンの口から舌打ちが漏れる。
「落ち着きなはれ、奥さん! あンお人に任せといたら大丈夫や!」
「もういやっ、勘弁して! こんなところに居るの、もう耐えられないっ!」
「落ち着けっちゅうねん!」
谷田部を中心にして円を描くように移動し、蛇川は騒ぐ女房らから距離を取る。
爪先に体重をかけ、いつでも飛び出せる体勢を整えながら、油断なく谷田部の呼吸を伺う。
厭わしい白梅香の薫りをさせ、濃い鬼の気配を纏った蛇川を、谷田部は敵と判じたらしい。女房らには目もくれず、蛇川の動きに合わせて体の向きを変えると、異様に膨れ上がった足で畳を蹴った。
一呼吸の間に距離が詰まる。
想定外の速さに目を剥く蛇川に、勢いそのまま、全身をいからせた谷田部が襲いかかった。
避けきれず、咄嗟に十字に組んだ腕で辛うじて突進の勢いを殺す。もつれながら二人は土壁へと突っ込んだ。
強い衝撃で壁に大きな穴が開く。
箪笥から落ちた花瓶が割れて破片を散らす。
物音に誘われたか、女房の鋭い悲鳴が響いた。
胸倉を掴まれ、流れるように引き寄せられたかと思うと、次の瞬間、蛇川は背中から畳に叩きつけられた。やせ細った谷田部の体からは到底想像もつかない、恐るべき力だった。
異常に膨れ上がった重量でもって乗しかかられ、蛇川の顔が苦悶に歪む。
咬みつこうとでもいうのか、歯を剥きながら顔を寄せてくる谷田部を両手で押し留める。両手に宿る無数の瞳が谷田部を睨みつける。谷田部は一瞬怯えた様子を見せたが、すぐにそれは怒りへと変わり、歯を噛み鳴らすと一層の力を込めて蛇川へと襲いかかった。
力と力が押し合い、両者の体が小刻みに震える。
しかし徐々に競り負け、蛇川の腕が押し込まれていく。
髪を乱し、歯を軋ませる蛇川は、しかし壮絶な笑みを浮かべていた。
「ここへ来たのは正解だった」
短い呼吸の合間に言葉を吐き出す。
その白い喉元に、涎に濡れた歯が迫る。
「会えて嬉しいよ。僕はあんたの話をこそ聞きたかったんだ、――春川」
「…………なぜ」
ぞっとするほど虚ろな声が聞こえ、一瞬その場に静寂が満ちた。
「なぜ今、その名を」
声を発しているのは女房だった。
思わず、ギンが押さえていた手を離す。束縛が解けたことにも気付かず、女房は虚ろな目で蛇川を見つめた。
同じく蛇川の言葉に反応し、谷田部の力がわずかに緩む。
その隙を見逃さず、蛇川が直突きを繰り出した。硬い拳が谷田部の顔面に突き刺さる。
痛みと驚愕に仰け反ったところへ続けざまに放たれた二撃目は、指の間に花瓶の破片が挟まれていた。
鈍い刃に鼻から頰にかけての肉を抉られ、谷田部が悲鳴を上げて顔を押さえる。
しかし蛇川の連撃は止まらない。矢のように胸元へと引き上げられた蛇川の足から、間を置かず強烈な足刀蹴りが飛んだ。
谷田部の体が跳ね上げられ、身の自由を取り戻すやいなや、蛇川は両手を頭のわきに着いた。持ちあげた両足をを振り下ろしてその反動で立ち上がると、仰向けに倒れた谷田部へと駆け寄り、折った両膝を顔面へと叩き込む。
絶叫する谷田部にも、しかし蛇川は怯まない。髪と肩とを掴んでうつ伏せに引き倒すと、膝でその首筋を押さえ込んだ。
顔中から鮮血を噴き出しながらも、いまだ谷田部は踠いていたが、全体重をかけて首を抑えこまれては身動きが取れなかった。
さらに片手で後頭部を押さえつけた蛇川が、着物の襟元に手をかける。
荒れ狂う波のような暴力が一段落つくと同時に、猫が車に轢かれたかのような悲鳴が聞こえた。見れば女房がぐったりと伸びている。
どこぞを締めでもしたらしい。ギンが呆れたように小さく肩を竦めた。
「やたら騒がしいんで、少し黙らせましたわ」
荒い息を吐き、蛇川がにやりと唇を歪める。
「いい判断だ。これを見てしまったら、きっと今以上に騒いだろうからな」
言うなり、手にしていた着物を一息に引き下げる。痩せさらばえた谷田部の背中が露わになる。
骨の浮き出た背中には、一部、奇妙な盛り上がりがあった。歪に膨れた肉の瘤は、よく見ればわずかに蠢いている。
細い目を見開いてそれを凝視していたギンが、うっと短い呻き声を上げた。
瘤には歪みがあって、それが人の顔を成している。人面瘤だった。
「なんや、これ……ッ」
歯の隙間から唸り声が漏れる。じり、と足をずらすと、ギンはわずかに腰を落とした。
左足を前に、右足を後ろに引いたその態勢は、古流柔術に見られる撞木足と呼ばれるものだ。両の足が『レ』の字の始めと終わりに位置することからレの字立ちとも言われる。
現代柔術ではまず見られなくなった構えであるが、後方への対処にも適したそれは、対多数を考えた時には理に適った構えだ。実戦に重きを置いた構えといってもいい。
ギンの目は驚愕に見開かれていたが、しかしその声に恐怖はない。蛇川は、この関西弁の男を少しだけ気に入った。
「これではない、彼だ。殺された春川信男だよ。随分と形は変わっちまっているがね」
「はあ……? ……えっぐいわァ。旦那はいつもこんなんとやり合うてはるんですか」
「見た目だけで判断するな。こいつは多分に友好的な部類に入る。まあ、少々興奮させすぎたようだがね」
「うへぇ」
うんざりとした声で、しかし油断なく構えたままでギンが呻く。
畳を血で濡らしながら谷田部がもがく。その首を押さえる膝に力を込めると、畳に強く押しつけられた谷田部の口から苦悶の声が漏れた。
「なおも暴れ続けるということは、手間を取らせたのはあんたの意思だな? 谷田部。そこまでして隠さねばならない情報とは一体何だ?
……さあ、教えてもらおうか春川。あんたはなぜ殺された? 殺される間際まで何を追っていたんだ?」




