三十三:陽動
谷田部の家はそう大きくもなかったが、外観には住人のこだわりが見て取れた。和洋折衷のそれは「文化住宅」と呼ばれるモダンなものだ。
大正十一年に上野で開かれた平和記念東京博覧会をきっかけに広く認知された住宅様式だが、和風建築が主流だった当時、洋風の暮らしを取り入れられるのはごく一部の富裕層だけだった。
どうやら金回りはいいらしい。
道理で詐欺まがいの輩が押しかけるわけだった。
「どうぞ……」
腰を折り折り女房に先導され、二人は和様式の玄関へと通された。
入ってすぐ左手には一転して洋風の応接室があり、革張りのソファが向かい合って置かれている。よく磨かれた机には真新しい花が活けられ、奥には自動電話も見えた。
「どうしてなかなか、局長いうんはええ御身分や」
ギンが小さく口笛を吹く。
「例の、親戚の男とやらが見当たらんが」
「おらんみたいですな。そこに男物の靴があるけど、ワシが尾けとった時に男が履きよった靴やない。どうも、日がな一日居座っとるてわけでものうて、夜は自宅に帰りよるし、数日来やんこともあるみたいです」
金目当ての輩を追っ払ういう名目で入り浸っとるけど、案外そいつ自身が金を目当てにしとるんちゃいますか。女房が室内履きを用意する間に、小さな声で情報を交わす。
いずれにせよ、喧しい外野がいないというのは蛇川らにとって僥倖だった。
出された室内履きに足を突っ込みながら、蛇川は口を引き結んだ。
懐に忍ばせた短剣が、にわかに熱を帯びている。やにわに増した緊迫感に、蛇川は全身の産毛を逆立たせた。先に立つ女房には気取られないよう、右へ、左へと視線を走らせる。
「なんや、えらい臭いますな」
目ざとく気付いたギンが言う。
確かに、家全体が何かの薬品のにおいに満ちている。ギンが言っていた『怪しげな漢方』とやらだろう。何とかして亭主に正気を取り戻させようという、女房の努力が垣間見えた。
しかし、蛇川の顔を険しくせしめたのはそれではない。
臭うには臭う。確かにそうだが、蛇川が嗅ぎ取ったのは薬品のにおいではない。人ならざるモノのにおいだった。
「あんた、鬼の存在については聞いているかね」
声を殺した蛇川の問いに、ギンの顔に緊張が走る。柔和な弧を描いていた糸目が、暴力に生きる男のそれに変わる。ごくり、と尖った喉仏が音を立てて上下した。
「話には聞いとります」
「そうか」
面白いものが見れそうだ。そう呟く蛇川の唇は地獄の釜の裂け目のように紅い。
冷たく歪んだ横顔は、極道者のギンをしてさえその背筋をぞくりとせしめた。
知らず、腕をさする。細身ながら引き締まった腕には、細かく粟が立っていた。そういえば、屋内に入りこんでからというもの、いやに薄ら寒い……
「こちらでございます」
膝をついた女房が、和様式の部屋の襖を引き開ける。
が、中を覗き込むなり悲鳴を上げて座り込んだ。
陽光が満ちるその部屋は、どうやら元は書斎だったと見え、読みかけの本が文机の上に開きっ放しになっている。その奥には中庭があり、部屋と中庭の間には艶艶とした廊下が渡されていた。
そこに揺り椅子が置かれており、傍には壮年の男が立っていた。
元は体型に合わせて仕立てられていたのだろう着物は、肩が落ち、余らせた布をだらりと垂れ下げさせている。緩んだ胸元から痩けて肋骨の浮き出た胸がのぞく。
男は客の訪いを歓迎するでもなく、言葉もないまま薄く口を開いている。その口元は、だらしなく垂れた涎でてらてらと光っていた。
病のにおいが立ち込めた部屋に、ギンが思わず顔をしかめた。
「なんや、元気に立っとるがな」
腰が抜けたか、座り込んだままの女房が首を巡らせて喚いた。
「ま、まさか……! この人は、何に反応することもなく、抱き抱えてやらなければ自ら立ち上がることも……」
「名医の施術はすでに始まっているというわけだ、奥さん」
笑いを含んだ蛇川の言葉に、女房が訝しむように眉根を寄せる。
蛇川は懐に手をやると、硝子の小瓶を抜き出した。蓋が持ち上げられていた小瓶からは、微かに白梅香の薫りが漏れている。
前触れもなく、不快そうに鼻を鳴らす谷田部の足元にそれを投げつける。谷田部は袂で顔を庇いながら怒声を上げた。
「あ、あの、乱暴は……!」
「ギン、女を押さえて後ろで見ていろ!」
とうに蛇川は紳士の仮面をかなぐり捨てている。
上半身を伸ばしてその腕に縋ろうとした女房の手を、ギンがそっと押さえた。青い顔で見上げてくる女房に、無言のまま首を横に振る。
涎を撒き散らしながら谷田部が吼える。肉の失せた皮が異様な形に膨れ上がり、弛んだ着物を持ち上げる。
蛇川が捨てた革手袋が落ちると同時に、谷田部の足が畳を蹴った。