三十二:陽動
果たしてその数日後、谷田部の女房を名乗る女が『骨董屋・がらん堂』を訪れた。
思ったよりも随分と早く女が現れたことにも驚いたが、蛇川は、女が己の前に立っていることにこそ驚いた。女は、把手を引いたのだ。
谷田部の女房が『表』のがらん堂を訪ねて来たならば、『表』の亭主には「相応しい者を派遣する」とだけ答えさせ、後日蛇川自身が赴く手筈であった。しかしその段取りも不用だったというわけだ。女房はすでに、蛇川らの領域へと片足を突っ込んでいるらしかった。
デスクの前に据えられた椅子で項垂れている女房は、哀れなほどに窶れて見えた。両の眼は落ちこみ、唇は荒れ、血の気のない頰は痩けてどす黒く変色している。元は美しく結い上げられていたのであろう丸髷は乱れ、長く櫛を入れていないのか、脂ぎった毛束がこぼれていた。それでも造形だけは整っているから、元は美しかったのであろうことが分かるだけ、一層哀れに見えた。
正直なところ、谷田部が廃人化したということは話半分でしか聞いていなかった。仮病の可能性を疑っていたのだ。
しかし女房のその姿を見ると、さすがにその疑念を引っ込めざるを得なかった。
「――それで、ご亭主は亡き春川君の幻覚を見るようになったと」
「ええ……そこからはもう、階段を転げ落ちるように……。一週間と経たないうちに、声すら発せなくなりました」
「なにも反応を示さないんですかな。奥さんの声やら、光やらにも」
女房はますます項垂れ、力なく首を横に振る。ふむ、と蛇川は分かったふうに頷いて見せた。
「おおよそは分かりました。ご亭主を診させていただきたいのですが、今からでも構いませんか」
「ええ、ええ……ぜひ、どうぞ、よろしくお願いいたします……」
麗しき骨董屋が口から出まかせを言っているなどとは露ほども疑わず、神か仏かを拝むかのように、女房は痩せ細った手をすり合わせるのだった。これにはさすがの蛇川も心が痛んだ。常にはない丁寧な口調は『病人を救う高潔な人物』を装うためだけのものではなかった。
路面電車に並んで揺られる道すがら、女房はぽつりぽつりと語り出した。
「警察の方にも散々お伝えいたしましたが……その、谷田部は、なんと申しますか……ひどく臆病な性質でして。男のくせに臆病者とはと笑われるやもしれませんが、本当に、そうなのです。よく言えば気優しいとも言えますが……とにかく、そういう男でございました。
ノブちゃん……ああ、春川さんの記事を読んだ時にも、それはもう……震えに震えまして、新聞がしわくちゃになるほど握り締めまして……。あれは、自分を責めすぎたに違いありません。自分の部下が、あんな惨い……」
それは奥さん、谷田部が春川の死に深く関与しているからではないだろうか。その言葉を喉元で殺し、蛇川は眉根を寄せた。ちょうど、部下思いの局長の不幸を悲しんでいるかのような具合になった。
「優しさと、責任感を兼ね備えた、素晴らしい方だったのでしょう」
「…………おお……ッ」
一声唸り、滂沱の涙を流して嗚咽する女房に、車内の乗客が好奇の目で二人を見やる。一見すると、様子のいい男が痩せ細った女を苛め泣かせているようで、早合点な乗客などは、蛇川を鋭く睨みつけたりもするのだった。
別に他人からどう思われようが痛くも痒くもないが、これは非常に居心地が悪い。優しい言葉をかけようものなら逆効果だし、蛇川はほとほと困り果てた末に無我へと至り、視線をぼうと定めないまま揺れに身を任せた……
蛇川にとっては長い長い時間を経て、二人は谷田部家へと到着した。距離でいえば銀座からそう離れてはいないのだが、珍しく蛇川は疲労の色を見せている。
谷田部家の前には細身の男が佇んでいた。
長着に角帯姿の男は、懐手をして谷田部家の二階を見上げていたが、耳ざとく二人の足音を聞きつけ振り返った。ギンだ。前回からは装いをすっかり変えている。吾妻に倣い、情報屋として動く時には和装と決めたものらしい。懐から手を抜くと、軽く腰を折って見せた。
がらん堂からこちらへ向かう途中、いわたに寄って電話を借り、呼びつけておいたのだ。蛇川としては特に必要もなかったのだが、勉強のためとギンが譲らなかった。先回りして待っているとは、相当やる気に満ちているらしい。
経緯を承知している蛇川とは違い、女房は明らかに不安げな様子でいる。顔に大きな傷の入った男など、いくら華奢とはいえ近付きたくはないはずだ。それに加え、ギンの左耳は大きく欠けている。いかに柔和な表情を浮かべていても、並みの女では怖ろしかろう。
「ご心配なく。僕の助手です」
「はあ……」
怪訝そうな顔付きのまま、しかし会釈するギンにはきちりと頭を下げ返す。礼儀正しい女らしく、他人の顔を不躾に眺めるようなことはしなかった。




