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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
31/101

三十 :微動

 蛇川が(とろ)けている。


 昼餉の時間はとうに過ぎ、飲み始めるにはまだ少し早い時間帯が、定食屋『いわた』が唯一息をつける時間だ。仕込みを終えた亭主は新聞を読むのが習慣で、一方のりつ子はといえばその日その日で様々だ。今日はくず子と闘球盤(欧米から輸入され、大正時代に流行した玩具)で遊んでいた。その様子を眺めながら、蛇川が蕩けている。


「ああっ、また飛ばしすぎちゃった!」


 頭を抱えてりつ子が呻く。りつ子は力の加減がうまくない。弾いた自駒は盤上から遠く飛び出して床へと落ちた。

 それをテーブル上に拾い上げてから、嬉々としてくず子が自駒を弾く。くず子の駒である赤色の駒は、りつ子の青い駒をはね飛ばして盤上の円近くに留まった。


「うまいうまい。くず子さんは本当に器用だ」


 声まで蕩けさせた蛇川が、カウンターから手放しの賞賛を贈った。笑顔で振り向いたくず子には、ひらひらと手を振って応えて見せる。両手で頭を抱えながら、りつ子が蛇川を睨め上げた。


「野次馬が五月蝿(うるさ)くて手元が狂うわ……」


「おかしなことを言う。あんたが弾く順番の時には僕は眠っているさ」


「もうっ、腹が立つ! とんだ光源氏だわ!」


「あんたにはこれっぽっちの興味も湧かんのでね、あいにく少女趣味ではないらしい。くず子さんは特別なんだ」


 言い切らないうちに、りつ子が力いっぱい自駒を弾く。弾丸のように飛ぶ青い駒は、あえなく革手袋の手に掴まれた。木でできたそれを一瞥した蛇川は鼻を鳴らし、グラスの上で手のひらを返す。細かな気泡を立てながら、青色の駒が水に沈んだ。


「くず子ちゃん、別なお遊びしましょ! 外野がいちいち茶々入れないやつ!」


「なら、馬鈴薯の皮を剥くってお遊びはどうだ」


 新聞を読み終えた亭主が、のっそりと立ち上がった。「それ、遊びじゃないわよ……」とりつ子が文句を垂れたが、くず子が嬉しそうに厨房へと向かってしまったから仕方ない。


 普段、がらん堂にいても蛇川はほとんど厨房に立たない。唯一の例外は、彼の趣味である珈琲を淹れる時だけだ。そんなだから、いくらくず子が料理をしたいと訴えても許可が下りなかった。

 くず子の希望は叶えてあげたい。しかし監督者もつけずに危険な厨房には入れられない。いわたにいる時は、りつ子なり亭主なりが注意深く見守ってくれるから蛇川も安心できる。そういうわけで、いわたで言いつけられる雑用もくず子にとっては楽しい遊びといえた。


 しばらくすると二組の客がやってきた。どちらもご婦人方や女学生の集まりで、珈琲や紅茶を片手に雑談を楽しもうという趣旨だったから、くず子は厨房を追い出されずにすんだ。


 女達は蛇川を見つけると一寸足を止め、顔をほんのり赤らめてから、そろりそろりと店内に入る。カウンターから遠くもなく、近くもない位置に陣取って、しかしなかなか着席しないのは、どうやら心置きなくカウンターを見つめられる位置に誰が座るかで揉めているらしかった。


「顔だけはいいんだから」


 包丁の持ち方を教えてやりながらりつ子がぼやく。悪口などはどこ吹く風で、グラスに口をつけようとした蛇川は、「亭主ッ! 異物が入っているぞ!」と不条理極まりない怒声を上げた。


 憤る蛇川を横目で気にしつつも、やがて女達のテーブルに花が咲く。

 話題はいつも他愛ないものだ。やれどこそこのデパートでは『文化』な洋服が売っているだの、やれどこそこの店員は愛想が悪くてよろしくないだの、蛇川にとっては無駄以外の何物でもないことばかりだ。


 しかし、やる事もなくカウンターに頬杖をついていると、自然と耳が会話を拾う。

 どうやらそれぞれの一団も同じようなものらしく、一方が盛り上がればもう一方は声を潜め、それとなく隣の話題を聞いている。そして拾い聞いた話題を種に、再び雑談の花を咲かせるのだ。


 女達の間で情報なり噂なりが広まっていく仕組みを目の当たりにした蛇川は、呆れるやら、感心するやら忙しかった。




 そうして半月ほどが過ぎた頃、久しぶりで吾妻からの合図があった。いわたに行くと、亭主が言伝を預かっているという。


 情報屋としての吾妻と会う時はいわたで、極道者としての吾妻と会う時はまた別な場所――亭主が言付かっている料亭なり、空き家なりでというのが習わしだった。

 今回指定されたのは打ち捨てられたカフェだった。ほとんど竣工間近という時に横槍が入り、そのままうっちゃりになっているものと聞く。


 カフェのある地域は吾妻ら鴛鴦(おしどり)組のシマからは外れているが、それはどの組も同じことだ。


 帝都には、どこの組の息もかかっていない、いわゆる中立地帯が浮島のように散在しており、その価値は大きく二つに分かれる。およそシマとして囲ったところでほとんど旨みもない枯れ地か、高すぎる利権にかつて激しい抗争が繰り広げられ、闘い疲れた果てに誰も手を出さないことで妥協した地のどちらかだ。


 このカフェの場合は前者にあたる。横槍のために廃棄されたとの触れ込みだったが、存外、なんの利益も見込めないことに気付いたオーナーが、施工費も払わず夜逃げした……なんていうオチかもしれない。


 いずれにせよ、誰に気兼ねもせずひっそり会う分には、これ以上なくうってつけの密会場所だった。

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