二十八:微動
「うう、寒み、寒み……」
空っ風に身を震わせて、ボロ布のような衣服を纏った男が歩く。右脚を引きずりながら歩くその姿は、埃っぽい路地と相まって一層哀れに見えた。細い路地にはガス灯すらなく、男を照らすのは丸い月ただひとつのみ。
男は近くに根城を構える浮浪者だった。
元々は工場勤めであったものが、大正デモクラシーの一象徴ともいえる自由主義に傾倒し、社長から睨まれ、体よく追い払われてしまったのが始まりだ。
男の右脚はほとんど動かない。その昔、事故で機械に挟まれたためだ。体に不自由を抱えた男を、どこの企業も雇ってはくれなかった。以来、男はゴミを漁ったり屑鉄を拾っては日銭を稼いで生きている。
とはいえ、男は今の暮らしにさほど不満を抱いていない。元より家族はいなかったし、工場に勤めていた頃の給金も決して十分な額とはいえなかった。浮浪者同士は存外強い絆で結ばれており、任侠の世界とまではいかないが、必要な時は互いを助け合い、寄り添いながら生きている。不自由はなかった。
ただ、こうも寒い日だけはどうにも堪えた。
男の根城は川沿いにあり、所々が破れた亜鉛鉄板(トタン板)で三面を囲っただけの粗末なものだ。鉄板を覆う新聞紙やら油紙でなんとか雨露は凌げるものの、風には弱い。寒風に晒し続けると右脚の古傷が痛むから、特別寒い日には、不自由な足を引き摺り引き摺り、隠れ家である寂れた倉庫まで出かけるのが常だった。
世は正月で浮かれている。風に巻き上げられたポスターに書かれた『新年大安売リ』の文字を睨め付けながら、男は道を急いだ。
だが、隠れ家には先客があった。
鍵が壊れ、歪んだ扉から細く光が漏れている。緩んだ壁板が風に鳴る音に混じって話し声もする。どうやら複数人いるらしい。
男は耳がよかったが、注意深いたちではなかった。物音の正体を確かめようと、身を隠すことも考えず、不用意にも真正面から入り口へと近付いた。倉庫の中では、少なくとも二人の男が何やら言い合いをしているらしかった。
そろそろと忍び寄り、男が扉に手をかける。その瞬間、中から勢いよく扉が開けられた。表面がささくれ立った木の板で強かに顔を打ち、男は喚きながら尻餅をついた。
男はもちろん驚いたが、扉を開けた人物も大いに驚いた。ハンチング帽を目深に被ったその男は、しばし言葉もなくして浮浪者を見下ろした。
「莫迦野郎、物音を立てるな!」
その背中から、押し殺した怒声が投げかけられる。仲間のものらしかった。
それでようやく我に返ったハンチング帽の男は、尻餅をついたままの浮浪者をじろりと睨みつけた。その後ろから、綿入りの羽織を着た男が顔を覗かせる。
「どうした? 何かあったか」
「み、見られたっ。なぜ、こんなところに人が……」
浮浪者の男は痛みと驚きに硬直していたが、ふと男達の背後に目をやった途端に悲鳴をあげた。
布で覆い、必要最低限に絞られた灯りの下で、全裸の男が血にまみれて倒れている。その顔の皮は無惨にも剥がれ、剥き出しの眼球がこちらを見ていた。
綿入れの男がハンチング帽の男を押しのけ、ずいと体を前に出した。そこでようやく気付いたことに、綿入れの男は随分と恵まれた体格をしていた。
「浮浪者か……寒さを凌ごうとやってきたらしいが、運が悪かったな」
人殺しだ。
それも、素人が弾みで手にかけたという生温さではない。本職の、人の殺し方を熟知している人間の殺しだ。
それが哀れな浮浪者の最後の思考になった。
いつものように定食屋『いわた』で新聞を広げた蛇川は、ある見出しに目を留めると顔を顰めた。おどろおどろしいその見出しには『猟奇! 面ノ皮ヲ剥ギ取ル殺人鬼』とあった。
さる空き倉庫で、顔の皮を剥がれた男性の遺体が二体発見されたという。死因はどちらも失血死。直接の死因は胸を抉る深いひと突きと思われたが、それ以外にも執拗な刺し傷、切り傷が無数についており、余程の強い恨みがあったものと考えられる。と記事は締め括っていた。
「やだ、怖い顔。せっかくの綺麗な顔が台無し」
がたりと音を立てて椅子を引き、吾妻が隣の席に座る。構わず新聞に見入る蛇川に、不満そうな声を上げた。
「あら。今日はいつもの挨拶がないのね。なんだか拍子抜けしちゃう」
無視を決めこんでいた蛇川だったが、しつこく覗きこんでくる垂れた目にやがて折れた。盛大にため息をつくと新聞紙を畳み、カウンターテーブルに叩きつけると派手に一言、「臭いぞ吾妻ッ!」
「そそ、それそれ」
ぱちぱちと小さく拍手して見せる相棒に、蛇川は再度ため息をついた。
二人揃えば途端に喧しい大人達に、女給のりつ子が呆れた様子で肩をすくめる。吾妻は人好きのする笑顔を見せ、いつものように紅茶を頼んだ。
「何を見てたの? 随分と真面目な顔だったけど」
「新聞だ」
「やァね、こういう人って」
ね、とりつ子に同意を求めながら、吾妻は新聞を手に取った。蛇川が読んでいた記事に目をやると、同じように顔を顰める。
「血生臭い話ねェ。顔の皮を剥ぎ取られた男の遺体が……あら、まァ。全裸だって、りっちゃん」
「死者への冒涜だわ」
カウンターテーブルに紅茶を置くと、りつ子は慣れない手つきで十字を画いた。おおかた、自動幻画かなんかでキリスト教徒の活動風景でも見たのだろう。
神妙な顔つきのりつ子に、蛇川がふんと嘲笑を投げた。
「あんたの場合は神への冒涜だな。十字というのは、まず上から下に画くのが通例だ。その先は宗派によって異なるがね」
うろ覚えだったりつ子は、まず腕を横に引いたのだ。にやにやと唇を吊り上げる蛇川に、りつ子の顔が真っ赤に染まる。
「本ッ当、いやな人!」
丸盆をテーブルに叩きつけ、肩を怒らせたりつ子がカウンター奥へと駆けこむと、蛇川はくつくつと笑い声を漏らし、髭の剃り跡すらない真っ白な顎をつるりと撫でた。
尻を振りながら去っていくりつ子を見送ってから、眉を垂れ下げた吾妻が振り向いた。
「だめよ、蛇川ちゃん。若い娘をいじめちゃ可哀相じゃない」
「人聞きが悪いな。いじめたんじゃない、これは教授だ。平気で無知を晒し続けている事の方が、余程か可哀相だと思わんか」
銀座の屁理屈王と呼ばれる蛇川に、口で敵う者はそういない。分かっているから無理には追いすがらず、吾妻は大人しく話題を戻した。
「にしても、派手な事件よね。顔の皮を剥ぐなんて、とても普通の神経じゃあできないわ」
「すぐに身元が割れちゃあ困るような仏なんだろう。皮を剥ぐという猟奇性より、そちらの方が僕には恐ろしいね。執拗な甚振りというのも、恨みというよりは拷問……あるいはそれに近いものだったように思える」
吾妻が視線を上げると、蛇川はもう笑っていなかった。口元に拳を押し当て、何もない空間を睨みつけている。
「この事件、このままでは終わらんぞ」
遺体の身元が判明したのは、それから二ヶ月が経った頃だった。春川信男という、まだ若い新聞記者だった。
遺体発見の三週間ほど前から行方を眩ませていたというが、真実の報道に心血を注ぐ若い春川は、事件に夢中になって数ヶ月ほど帰らないことも珍しくはなく、家族から捜索願は出されていなかったという。それが身元の判明を遅らせた。
もう一人の身元は依然としてはっきりとはしなかったが、近くの川沿いに寝泊まりしている浮浪者であることが分かった。男の尻には特徴的な蒙古斑があり、酔った折にそれを見せられた浮浪者仲間がそれを証言したという。
ただ、殺された二人の繋がりだけは未だ見つけられないままだった。
二人の身元判明から程なくして、犯人も捕まった。下田という、有楽町界隈にシマを持つ組のヤクザだった。