二十七:太夫の手鏡
虫が鳴いている。
熱心に手鏡を覗きこむ香津太夫の影を、行燈の灯が揺らす。
高級遊女は、位の低い遊女のように毎夜客を取るわけではない。出し惜しみに出し惜しみして、その希少価値を高めるのだ。
自室にいるほとんどの時間を、香津太夫は気に入りの手鏡のを覗いて過ごす。恵まれた己が容貌を心ゆくまで眺め、どの角度から見ればより美しさが引き立つか、どう瞼を伏せれば煽情的か、研究するのが常だった。
ことりと小さな物音がした。香津太夫はちらと視線を襖にやったが、すぐに手鏡の中へと戻した。隣の部屋には二人の禿が控えている。居眠りをした禿が、何か粗相をしたに違いなかった。
どうやって折檻してやろう。
梁に吊るすだけの折檻はもう飽いた。尖った石ばかりを敷き詰めて、その上を裸足で歩かせてやろうか。
手鏡に映る香津太夫の顔が醜悪に歪む。彼女の恐ろしい本性を真に知るのは、唯一この手鏡だけだ。
ごとり、と今度は大きな物音が聞こえ、押し殺した声が漏れてきた。香津太夫は眉を顰めた。ずる、ずるりと、何かを引きずる音が続く。垂れ下がった布が、畳を掻く音らしかった。
「あんた、何をやっておるんや。ええ加減に――」
言い切らないうちに襖が開けられ、香津太夫は口を開いたまま固まった。そこに立っていたのは、髪を振り乱し、顔のあちこちを酷く腫れさせた時雨だった。
寝間着から覗く細い手首には縄の痕が見え、どうやら酷い折檻を受けた後らしかった。廓から逃げ出そうとしたものらしい。
その痛々しい様相にぎょっとした香津太夫であったが、驚きはすぐに侮蔑の色に変わった。
「なんや時雨、こんな時間に。折檻の痛みで礼儀作法も忘れたか」
鼻を鳴らす香津太夫だったが、時雨の手元に光るものを認めて絶句した。行燈の灯を受けて鈍く光るのは、飾り気のない剃刀だった。
「あんたっ……血迷ったか!」
誰か、と慌てふためき声を上げるも、恐怖のために引き攣った声しか出てこない。
視線を巡らせば、開いた襖の向こうにお付きの禿が倒れている。生きているのか死んでいるのか判別はできなかったが、倒れる二人の娘は人形のように動かない。
「だ、誰か……時雨が、時雨が錯乱しおった!」
「あんたは鬼よ」
成り行きを見守っている二人の男もぞくりとするほど暗い声が、時雨の口からこぼれ落ちた。香津太夫が小さく悲鳴を上げ、逃れようと腰を浮かせる。
その動きに釣られたように、ぱっと時雨が畳を蹴った。寝間着の裾をはためかせ、香津太夫へと躍りかかる。香津太夫の紅い唇から絶叫が漏れた。
ようやく変事に気付いたか、にわかに廓が騒がしくなり始めた。廓の中には当然男衆がいる。体格のいい男達の足音が、慌てたように階段を駆け上がってくる。
間一髪で刃をかわした香津太夫は、身を翻してその音の方へと駆けた。その拍子に、纏った豪奢な着物が行燈を倒す。油を散らしながら倒れた行燈の周囲は、瞬く間に炎の海となった。
「鬼よ……あんたは、鬼」
「ひいィッ!」
時雨が香津太夫の着物を掴む。女の細腕とは思えない力で引き戻され、香津太夫は畳へと手をついた。指先が炎に触れ、つん裂くような悲鳴が室内に満ちる。
「火事だっ! 火がついているぞ!」
早くも室内から漏れ出した黒煙に、そこここで叫び声が上がる。
「ゆ、許して……悪気はなかったの。辛かったでしょうね。でも、わっちは店のためにと……」
縋るような香津太夫の声に、しかし時雨は眉のひとつも動かさない。一歩ずつ、畳を踏みしめながら近付いてくる時雨から遠ざかりながら、香津太夫はすばやく視線を巡らせた。時雨の背後に回れば、そこから部屋の外へと逃れられる。
ジュッというおぞましい音が聞こえ、香津太夫は時雨へと視線を戻した。見れば、時雨の素足が燃えた畳を踏んでいる。
踏まれた畳から灰色の煙が上がり、次いで耐え難い異臭が漂ってきた。炎が、時雨の肉を焼いている。
「ひいィーーーッッ!!」
弾かれたように畳を蹴り、香津太夫が飛び出した。上質な着物を巻きこみ鞠と化し、幽鬼のような時雨へと全身でぶち当たる。よろめいた時雨は獣のような咆哮を上げ、香津太夫に縋りつく。体勢を崩した二人は、揉み合うようにして畳に倒れこんだ。
「ギャアアーーーッッ!!」
悲鳴を上げたのは香津太夫だった。
がばりと身を起こし、両の手足を激しく振り回す。死に物狂いで時雨の拘束を解くと、香津太夫は逃げ道とは反対の方向へと這い進んだ。その手は上体を起こした際に炎に触れ、酷い火傷を負っていたが、それを顧みる様子もない。
悪鬼羅刹の形相と化した香津太夫は、取り落としていた手鏡を拾い上げた。震え戦慄く腕をゆっくりと持ち上げる。その腕が震えているのは、手のひら全体に負った火傷のせいではなかった。
ついに手鏡を覗きこんだ時、香津太夫の口からこの世のものとは思えぬ悲鳴が飛び出した。
荒れ狂う暴風にも似たその絶叫は、炎が回りだした廓を揺らし、逃げ惑う人々の肝を底から冷やした。
震える指に一層の力が込められ、形のいい爪が寄木の細工を深く抉る。絶叫しながらもなお、血走った眼は手鏡に据えたまま。
その顔は、美しい華の顔は、炎に舐められて焼け爛れていた。
「どこまでも身勝手な女だ」
悲鳴と怒号が入り交じる廓に、蛇川の声はいっそ冷え冷えと響いた。
「若い女の命を奪うのは、己が美貌を奪われた腹いせというわけか。あんたにぴったりの言葉を贈ってやるよ……『自業自得』だ」
その手には、いつの間にか赤褐色の短刀が握られている。その鞘を払った瞬間、蛇川と手鏡の回想とが繋がった。
気配を察した香津太夫が、焼け爛れた顔を蛇川に向ける。油の切れた時計のようにカクカクとした不自然な動作に、腰を抜かした山岡が悲鳴を上げた。
蛇川の姿を認め、香津太夫は轟くような咆哮を上げた。
あまりに激しく叫ぶあまり、喉は破れ、口の両端は裂け、まさに悪鬼の形相であった。血の混じった唾を吐き散らすその姿は、もはや、吉原に香津太夫ありと言われた花形花魁ではなかった。
言葉にならない叫び声を上げ、鬼が突進してくる。蛇川はその顔面に鞘を投げ付けた。矢のように飛ぶ鞘は、狙い過たず鬼の顔面に打ち当たったが、その突進を僅かに鈍らせただけに終わった。
その一瞬の隙を突き、蛇川は屈みこむ山岡の尻を蹴り飛ばす。喚きながら二度前転した山岡が、制帽を跳ね飛ばしながら壁に頭から突っこんだ。
「骨董屋ッ!」
「退がってろ!」
腰を落とし、迎撃体勢を整えた蛇川が、山岡には目もくれずに叫ぶ。刹那、鬼がその懐へと飛びついた。
短刀を振るおうとするが、目測よりもいや長く伸びた鬼の腕が、短刀を持つ蛇川の腕を捉える。目を剥く蛇川の腕に、勢いそのまま鬼が噛みつく。鮮血が散り、端整な顔が苦悶に歪む。しかし蛇川は怯まず鬼の頭を抑えこむと、腕に噛みつかせたままその体を畳に叩きつけた。
突進の勢いを利用した投げ技は、鬼の体を割れた畳の奥へと沈めた。しかしすぐさま起き上がり、十本の爪でもって再び蛇川に襲いかかる。
その隙に革手袋を剥ぎ取った蛇川は、襲い来る鬼と交差するように身をかわし、強く握った拳をその顔面に叩きこんだ。振りかぶった腕を畳につくと、足を蹴り上げて倒立の体勢へ。悲鳴を上げて仰け反った鬼の喉に、高く持ち上げられた足から強烈な踵落としが繰り出された。
喉を踏みつけながら立ち上がった蛇川は、倒れこんだ鬼に向かって短刀を振り下ろす――
「なんだとっ!?」
それを阻んだのは、強靭な鋼と化した黒髪だった。元は美しい日本髪に結い上げられていた黒髪は、禍々しい光沢を帯び、意思を持つ生き物のように蠢き、驚愕の声を上げる蛇川の体を捉えた。
恐ろしい力で締め上げられ、蛇川の手から短刀が落ちる。鬼の腫れ上がった顔が狂喜に歪み、黒髪の束でそれを壁際まで弾き飛ばした。
髪は蛇川の体を腕ごと締め上げ、軽々と持ち上げる。なす術のない蛇川は、右に、左にと振り回され、激しく壁に打ちつけられた。その衝撃に廓が震える。
体を屈め、頭からの直撃だけは避けようとする蛇川だったが、激しい痛みに意識が薄れる。乱れに乱れた髪を振り、なんとか視線を定めようとした瞬間、一層苛烈な勢いでもって壁に打ち当てられた。
「骨董屋ッ!」
山岡の叫び声が空間を切り裂き、鬼の動きが一瞬止まった。髪の力がわずかに緩む。蛇川は渾身の力でもがき、鋼の拘束から抜け出した。しかし痛めつけられた体は空中で体勢を崩し、頭から畳に打ちつけられる。
ふらつきながら立ち上がると、ぎこちない動きで山岡に向き直る鬼の姿が目に入った。駆け出そうとするが、足を踏み出した途端に視界がぐらつき、膝をつく。ぐ、とくぐもった声を漏らすと、蛇川は血塗れの吐瀉物を吐き出した。山岡の絶叫が響く。
「巡査ッ……」
壁に背をつけ、倒れないように体を支えながらゆっくりと立ち上がる。蒼白な顔で鬼と対峙していた山岡が、一瞬だけ蛇川に目を向けた。頭から垂れてきた血が目に入ったが気にもせず、蛇川はその視線を燃えるような目付きで受け止めた。
「短刀を寄越せっ、山岡ァーーッッ!!!」
弾かれたように山岡が飛び出すのと、鬼が襲いかかるのはほとんど同時だった。山岡の丸い指が、畳に落ちた短刀を掴む。屈んだその背を鬼の爪が抉る。鮮血が花弁のように散る。たたらを踏んだ山岡は、しかし踏み止まると短刀を蛇川に向かって振り投げた。
背を預けていた壁を蹴り、蛇川が駆け出す。跳び上がり、放物線を描く短刀を掴むと逆手に構え、我が身もろとも鬼の脳天へと突き込んだ……
美華登楼から出た炎は瞬く間に四隣へと広がり、およそ十時間をかけて吉原を焦土へと変貌させた。
警官や消防組に加え、近場に居合わせた陸軍兵士までが総出で消化に当たったものの、水利が悪く、頼みの蒸気喞筒は石炭を喰らい尽くしてしまって稼働すらせず、約六五〇〇の家屋が焼け落ちた。
後に吉原大火と呼ばれた大家事である。
他に物音のない物置部屋に、二つの荒い呼吸が響く。
仰向けに倒れ、薄い胸板を上下させながら、蛇川は乱れた髪を撫でた。その手には黒の革手袋がはめられている。
山岡は手鏡を握り締めたまま、膝を抱えこんで震えていた。
こうしていると、先程までの出来事が、悪夢か何かのように思えてくる。しかし身動ぎするたび鋭く痛む背中の傷は、それが現実であると声高に訴えていた。
手鏡からは、木材の焦げる臭いが微かに漂ってくる。よく見れば、鏡本体からはうっすらと黒煙が上がっていた。
「骨董屋よ……」
なぜ、と続ける震えた声に、蛇川は眉間に皺を寄せた。
「あれは……到底、言葉で説明できるモノでは……」
「なぜ、あの娘達は死なねばならなかったんだろうな」
予想だにしなかった問いかけに、蛇川は口を閉じた。山岡が言う「あの娘達」というのが、手鏡に呪い殺された犠牲者達を指すのか、それともその回想に見た遊女達を指すのかは分からなかった。
それでも、その答えは明確だった。
「鬼がなぜ生まれるのか、それは分からん……。だが、鬼を生むのはいつだって我々、ヒトだ。ヒトの念が、怨みが、積もり澱んで鬼と化す」
「……哀れな存在だな……」
蛇川がはっと息を呑んだが、俯き震え、涙を流す山岡は気付かなかった。ただただ、哀れだ、と何度も口の中で呟いた。
「ああ、哀れだ」
ゆるゆると細く、長く息をつき、蛇川が短刀を鞘に収める。パチリという小気味いい音を合図に、手鏡が脆く崩れ始めた。木の一片一片が剥がれるように崩れていくそれは、床に落ちる前に炭と化し、灰となって消える。
最後に残った鏡面がきらりと光ると、瞬きをする間にかき消えてしまった。
それを追って山岡が視線を上げると、仰向けに倒れたままの蛇川が泣いていた。声は出さず、ただ静かに泣いていた。
閉じられたその瞳から、美しく光り輝く涙が一滴、零れ落ちた。
どこか遠くで鳥が鳴いた。静かになった物置部屋に、朝の気配が近付いてきた。
(太夫の手鏡 了)




