二十六:太夫の手鏡
窓のところへ吊るしていた鳥籠から、愛らしい囀りが聞こえる。
昨夜の客が是非にと贈ってくれた小鳥は、西欧から連れてこられたという珍しい品種だ。背黄青鸚哥というらしい。
背を屈めるようにして手鏡を覗きこんでいた女は、その声に呼ばれて顔をあげた。寄木細工の手鏡は、女を禿から厳しくも優しく育て上げてくれた先輩遊女からの贈り物だ。
ぞっとするほど美しい女だった。
日本髪に結い上げた黒髪は艶艶とした光を湛え、切れ長の目は気品と知性を感じさせる。その目尻は紅を引いてなくともほんのりと赤い。色白の顔には小ぶりの黒子が目立ち、それが女に煽情的な色香を纏わせていた。
後れ毛を撫で上げる女を、山岡が食い入るように見つめる。ぽつりと横から声がかかった。
「香津太夫。吉原でその名を馳せた、当時の花型花魁だ」
「香津太夫……。当時、というのは?」
「明治四十四年。僕の推測が間違ってなけりゃあな」
蛇川の言葉に、さっと山岡の顔色が変わる。
吉原。明治四十四年。二つのキーワードが意味することは、ただ一つ。
背後で言葉を交わす男二人にはまるで気付かないようで、香津太夫は膝を払って立ち上がった。豪奢な着物を擦り擦り、窓際に近寄る。つ、と手を伸ばして鳥籠を取ったその姿には、一枚の日本画を切り取ったかのような美しさがあった。
しかし、耳障りな舌打ちの音がその情景を打ち壊した。
「しょうもな……。こんなもん、飼うたところで煩わしいだけやないの」
ため息混じりに吐き棄てるが早いか、香津太夫は鳥籠の口を開けた。
しばらくの間、背黄青は首を傾げて様子を伺っていたが、やがて自由に気付いて飛び立っていった。鮮やかな黄色の羽が、青い空に滲み、溶けて消えていく。
後ろで控えていた禿が、残念そうな声をあげた。
「ああっ、なんてこと……。せっかく、伊勢屋の旦那さんが花魁にと」
「迷惑なんや。チョンの間の遊びのつもりやったんに本気で惚れやって……」
振り返った香津太夫の顔には、醜悪な笑みが浮かんでいた。紅い唇が、毒を持った生き物かのように吊り上がる。
「旦那さんを盗られた時の時雨の顔ったら……あれは、見ものやったなあ」
美しい歯列から、切り裂くような笑い声を漏らす香津太夫。そのおぞましい形相に、思わず禿が悲鳴をあげ、我が身を抱いた。
吉原において、遊女と遊客はある種の擬似夫婦関係を形成するのがならいだ。どれほどな上客といえども、初会は遊女に手を触れるどころか、言葉を交わすことすらも許されない。それでも客は次も同じ遊女の元へと通う、すなわち『裏を返す』のが決まりだ。
遊女の鞍替えは不義の証。もしそれが露見しようものなら、法外な罰金を取られるか、吉原から永久に追放されるかのどちらかだ。
しかし、伊勢屋の旦那の場合は違った。
客が不義を働いたのではなく、美華登楼という廓そのものが、店を挙げて遊女の鞍替えを薦めたのだ。
伊勢屋は大変な太客だ。金は吸い上げれば吸い上げるだけ取れる。しかし、伊勢屋が初会に選んだ時雨という付廻にその技量はないと思われた。それを爺に注進したのが、美華登楼の花形花魁である香津太夫だった。
もちろん、事は内々に行われた。伊勢屋はもちろん、廓内部にも厳戒な緘口令が敷かれ、一切の口外が禁じられた。
伊勢屋はといえば、香津太夫の色香にあてられ、すっかり逆上せあがっている。控えめな美しさと、和歌を得意とする時雨の知性を愛したはずの男は、妖か魔かとも思われる香津太夫の美貌に骨抜きとなっていた。鈴のような声で「このことは二人だけの秘密ですえ」などと耳元で囁かれた日には、たとえ百の拷問にかけられようと、決して鞍替えの話など漏らそうはずがなかった。
ただ一人、哀れな時雨は人知れず枕を濡らすのみだった。
「お、花魁は……伊勢屋の旦那さんのことは……」
甲高い笑い声がぴたりと止み、香津太夫が禿を見据える。狂ったかのような形相から一転、その表情からは一切の感情が抜け落ちていた。
「別に、何とも思うとりゃせん。わっちはただ、時雨がどんな顔しよるか見たかっただけ……あれは傑作やった……」
「……狂っていやがる」
呻くように山岡が呟く。しかしその声が女達に届くことはない。二人の目の前で繰り広げられているのは、あくまで手鏡の回想だ。
山岡の呟きに呼応するように、再び場面が切り替わった。
いつしか、廓は宵の闇に包まれ出していた……