二十五:太夫の手鏡
許されるなら、呆けたように垂れ下がったその顎を蹴り上げてやりたい。
どす黒い暴力の渦が心をかき乱すのを、蛇川はすんでのところで耐えた。曲がりなりにも相手は現職の警察官だ。殴って「ごめんなさい」では済むまい。
もとより、手鏡の後を追うのは己一人でやるつもりだった。無論、山岡を巻きこみたくない、という義侠心などはこれっぽっちも持ち合わせていない。ただただ邪魔をされたくない一心だった。
鬼の存在を知る者はごく僅かだ。
正確に言えば、その気配を嗅ぎ取ったことのある者自体は少なくないだろうが、それが『鬼』という存在であると知覚している者は限られる。
更に言えば、無知と無謀とはごく薄い壁を隔てて隣り合わせだ。鬼に対して無知極まりない山岡がそばにいることで、蛇川までもが危険に晒される可能性は低くなかった。
山岡は両手を地につき、あんぐりと口を開けている。目の前に広がるのはどこまでも続くかに見える暗がり、ただそれだけだった。
突き出した己の腕さえも溶けこんでしまいそうな、無一色の闇。指先に感じる砂の感触。ここが築地署の物置部屋とは、さすがの山岡にも思えなかった。
「なぜ……こ、ここは一体……」
顔の左側から忌々しげな舌打ちが聞こえ、それでようやく蛇川の立ち位置が分かるという始末。
山岡にとっては、蛇川の姿が見えないことはある意味で僥倖だったかもしれない。灯りの下であればとても直視はできない、醜悪な獣のように歪んだ形相がそこにはあった。
「骨董屋、ここはどこだっ!? 手鏡はどこへいった! なぜ、我々はこんなところに……さっきまでは確かに、物置部屋で……」
「なぜ、なぜ、なぜ……か。山岡巡査。あんた女房はいるかね」
あまりに唐突な問いかけに、思わず山岡は肯定を返した。うだつの上がらない山岡の、うだつの上がらない女房は、今夜も亭主の帰りを待たずに眠っていることだろう。
「『なぜ』女房と添った?」
「なっ……」
暗闇の中で、耳朶に血が上っていくのを感じる。
「そっそんなこと、なぜお前さんに話さにゃならんのだ!」
「別に僕とて聞きたくて訊いたわけじゃない。ただ――覚えておけ。この世には、すぐには答え得ない、あるいは答えすらもない『なぜ』が山ほどもあるということを」
要するに「ごちゃごちゃ言わずに黙っていろ」ということだが、ただの警告も蛇川にかかれば遠回し、かつ極上の嫌味を含んだものになる。
山岡は恥ずかしさと怒りとで顔を赤くしたが、しかし何も言い返さなかった。離れていろという蛇川の忠告を聞かず、この事態を招いたのは己のせいだ。あまりの変事に呆けていたが、蛇川の怒りも尤もと思われた。
ようやく山岡が口を閉じると、蛇川はゆるゆると息を吐きながら地面を蹴った。苛立つ革靴に蹴られて砂が散る。
経験の差だろうか、山岡と違い、蛇川にはうっすらと周囲が見えている。どうやら火災現場の跡地らしかった。辺りに漂う焦げ臭さは、家屋が焼けた臭いだろうか。山岡も異臭に気付いたか、盛んに鼻を鳴らしている。
「……なにか燃えているのか?」
「火事があったらしい。燃え尽きた柱や梁が炭になって転がっている」
「お前さん、見えるのか」
「まあね……暗がりには慣れている」
うなじを掻くと、蛇川は慎重に足を踏み出した。磨り減った靴底の下で、炭が崩れて乾いた音を立てる。連れが歩き出した気配に慌て、山岡も四つん這いのまま足音を追う。
先に進めばどうにかなる、という確証はなかったが、じっと止まっているのは性に合わない。それに、手鏡が己の過去を見せてくれるというのなら、こちらから出向いてやるくらいの誠意は見せてもいいはずだ。
蛇川の判断は正しかったらしく、暗がりを突き進むうち、やがて前方に灯りが見えた。制服を砂で汚した山岡が、ほっと安堵の息をつく。しかしその息に、わずかに訝しむ色が滲んだ。
「これは……吉原か?」
足元には煤けた木片が散らばっているが、眼前には瓦葺の見事な純日本家屋が並んでいた。
一階の往来に面した部分には木製の格子が設けられており、その奥には小部屋が見える。本来であれば、その小部屋には美しく着飾った遊女が並んでいたに違いない。張見世という遊郭特有のシステムで、初見の客は、居並ぶ遊女らを見て品定めをする。とはいえ、そこに並ぶのは下級に位置する遊女だけであって、本物の高級遊女にはめったにお目にかかれない。
「ご明察だ。随分と世俗のことに詳しいな、巡査」
「いちいち茶化すな。しかし、なぜこんなところに……」
再び「なぜ」を発してしまい慌てて口を噤んだが、蛇川はもう怒らなかった。山岡をからかった軽薄さは微塵も見えない、真剣な目つきで前方を睨んでいる。相変わらずの眉間の皺は難点だが、優れた容貌の蛇川がそうしていると、一種凄みのある色気すらあった。
寸の間、山岡は我を忘れてその横顔に見惚れた。その刹那、視界の端で日本家屋の街並みが大きく揺れた。
「うわァーッ!」
何事かと正面に向き直った山岡は、恐怖に染まった悲鳴をあげた。街並みが、荒れ狂う波のように押し寄せてくる。
地面にがばと打ち伏し、山岡は頭の上で両手を擦り合わせた。
「なっ、なんまんだぶなんまんだぶ……!」
「騒ぐな。せっかく手鏡が胸襟を開いてくれているんだ。僕らには彼女の思いを見届ける義務がある」
「か、彼女の思いだと……!?」
「なぜ手鏡が鬼と化さねばならなかったのか。その理由だ」
蛇川の凜とした声が響くと同時に、押し寄せてくる街並みがぴたりと止まった。辺りの景色ががらりと変わる。
二人は、ある家屋の一室に立っていた。