二十四:太夫の手鏡
「ふゥん。で、あったの? その、一番目二番目の鏡ってのは」
「当然、なかった」
ふん、と鼻を鳴らしながら、蛇川がスプーンを口に入れる。
定食屋『いわた』亭主特製のオムライスは、銀座発祥のそれではなく、大阪の洋食屋『北極星』仕込みのものだ。
玉ねぎとマッシュルームを炒めたものを卵で包んだ、シンプルな一品。ケチャップはまだ市井に広く出回ってはいなかったから、味付けは塩に胡椒とシンプルなものだ。それでも十二分に旨いのは、当時、洋食は高級料理だったために、一般市民の舌がまだその大味に染まっていなかったことと、何より亭主の料理人としての腕があったからだ。
オムライスに限らず、いわたの飯は旨い。そのどれもが他の定食屋よりも頭ひとつ抜き出ていると言ってもいい。
下拵えから後片付けまで一切妥協しない亭主のこだわりはもちろん、娘のりつ子と二人、父娘手を取り合って店を支えているその姿も、極上の調味料となっているに違いなかった。
さらに吾妻に言わせれば『どれもお紅茶に合う』らしい。今日のつまみはホッケの開きだ。垂れた目を幸せそうに細め、焼き魚と紅茶を楽しむ吾妻に、女給のりつ子は丸盆を抱いたまま呻き声をあげた。
「しかし、警察というのはどこまでも無能な奴らだな。手鏡がなくなったことにも気付かず、空の封筒を後生大事に保管しているとは」
「まあ、杜撰っちゃ杜撰だけど、もともと足が生えているものでもなし。まさか自ずから失くなるだなんて、普通は思いもしないものねぇ」
あの後、各事件の所轄の警察署を駆け回り、手鏡の所在を探った山岡は、それがどちらも紛失しているらしいことを知り愕然とした。
手鏡が、己の意思で動き回り、若い女を焼き殺している。
そんな夢物語――いや、悪夢のような話を突如現実として突きつけられ、凡人たる山岡はひどく狼狽えた。どうすればいいか、分からなかった。ただ、山岡とて無駄に長く生きてきたわけではない。どうすればいいか、てんで分からない時の対処法だけは知っていた。わけ知り顔の人間を頼ればいいのだ。
今回の場合、彼が頼るべきは蛇川を置いて他になかった。
「わくわくするわァ。次の新月には殺人鏡を巡って大捕り物ってわけね」
「同行は許さんからな」
「ひどォい! 蛇川ちゃんのために、頑張って情報集めたのよ」
片眉を上げる蛇川に、吾妻が得意げな笑みを浮かべる。廃ビルのタイルの染みは、今日も左上、『良シ』の位置にあった。
その次の新月の夜、当直の警官以外が帰宅してから蛇川はそろりと廊下へ顔を出した。昼日中のうちに入りこんでおき、例の物置部屋で息を潜めていたのだ。
廊下にひと気がないことを一通り確認すると、蛇川は安堵とも呆れとも取れない息を吐いた。
「しかし、なんだな。こうも容易く部外者の侵入を許す機関に帝都の平和を預けているというのも、考えものだな」
「この場合は内通者が有能だったことにしておけ。それよりも」
蛇川の眉間に深々と皺が刻まれるのは見て見ぬふりで、山岡は息をつかずに続けた。封筒を忍ばせた胸元を軽く叩く。
「こいつだ。後を尾けるったって、どうするんだ」
「知るか。成り行きに任せる」
灯りは最小限に絞っているため、部屋の中は薄暗い。山岡が屈みこむと、蛇川もその側に腰をおろした。
「まさか、足がにょっきりと生えるなんてことは……」
太い指でもってボタンを外し、懐から封筒を取り出した山岡は、驚きのあまりそれを取り落としそうになった。
封筒の底が、淡く光を放っている。
それと見るや、蛇川の腕が伸ばされた。
「貸せっ!」
「うわっ、何を」
封筒を引ったくった蛇川は、乱暴に中身を取り出した。破れた封筒から、光り輝く手鏡が転がり落ちる。
封筒越しには淡かったその光は、薄暗いい物置部屋にあって、目を射るかのごとき眩しさだった。
思わず腕で目を庇った山岡は、光が急速に消えていくのを感じて腕を下げ――そして絶句した。
手鏡を持つ蛇川の体そのものが、うっすらと光を帯びている。
光が収束するのに伴い、その体は徐々に透けて見えた。
「骨董屋、お前さん……」
「これが正解と信じて行くしかなかろう。門外漢は離れていろ」
「ま、待てっ!」
消えゆく腕に山岡が縋りつくのと、蛇川の口が大きく歪められるのとは、ほとんど同時のことだった。
ただ、その口から声が漏れることはなかった。細身の体も、声も、光と共に物置部屋からかき消えていた。何も分からないまま、衝動に任せて飛び出した山岡を連れて。