二十三:太夫の手鏡
※150326:二十二の後半に一部加筆のうえ、最新話を更新しています。
数分後、二人は再び『いわた』のカウンターに座っていた。
いわたに着くなり蛇川は一度奥に消え、五分ほどして戻ってきた。電話を借りてきたらしい。一つ席を空け、並んで座ったはいいものの、蛇川がゴツゴツとカウンターテーブルを叩き続けるので落ち着かない。
女給のりつ子に助けを求めようと顔を巡らせたが、りつ子は店奥のテーブルを片付けるふりをして、梃子でもその場を動かないといった様子。
さすが、若いうちから客商売に従事しているだけはある。近寄るべきでないものを、正確に察知している。
一度、おずおずと口を開いてみたりもしたが、ほとんど話さないうちに「喧しいっ!」と一喝され、諦めた。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。
やがて無口な亭主に呼ばれ、蛇川が再び奥へと消えた。折り返しの電話があったようだ。山岡とりつ子の口から、ほぼ同時にため息が漏れた。
蛇川の方はというと、首尾はなかなかに順調のようで、間断なくやり取りする声が細く聞こえる。きっと、相手が喋り終えぬうちから蛇川が被せているのだろう。ああも休みなくまくし立てられては堪ったものではない。応対している相手も大したものだと山岡が耳を澄ませていると、不意に蛇川の声が怒号に変わった。山岡の肩が跳ね上がる。
「ふざけやがって! 湯治か何かかと思っていやがる!」
喚きながら出てきた蛇川は、山岡になどは目もくれず、そのまま往来へと飛び出した。慌てて後を追う山岡を見送りながら、りつ子がやれやれと肩をすくめる。
「ま、待てよ骨董屋」
「んん? なんだあんた……ああ、山岡巡査か。何処をほっつき歩いていたっ!」
「んな殺生な……。それで、うまくいったのか」
「話はついた。さる有志が手引きしてくれる」
どういう伝手をつかったんだ、という言葉が喉元まで出掛かっていたが、ついに言い出せぬまま築地署に着いた。
築地署に着くと、一人の警官が二人を小部屋へと案内した。通されたのは、当直の署員が仮眠を取る部屋のさらに奥。布団や、わずかな暖房器具を詰めこんだ物置き部屋だった。
案内してくれたやや年若のその警官は、山岡も見知った顔である。念には念を入れ、山岡は深く俯いた。
いわたに寄った折、山岡は和装に変装している。亭主に都合してもらったものだ。中折れ帽を被り、襟巻きを口元まで引き上げると、ぱっと見には山岡が誰かなど判別はできないはずだった。
いかに義憤からの行動とはいえ、山岡の行為はその職務を逸脱している。どういう形であれ、彼が動いていることを悟られるわけにはいかなかった。
職務を逸脱しているのは、年若の警官もまた同じだ。顔を隠すようにしながら幾つかの封筒を持ってくると、そそくさと部屋を後にしようとした。
「待ちたまえ」
蛇川は懐から紙片を取り出した。山岡が見せた、例のスケッチだ。
拡げたそれを、蛇川は年若の警官に示した。
「あんたはこれの実物を見たことがあるか」
「……ある」
「ここに描かれているのは何番目のものだ?」
年若の警官は、伺うように蛇川の顔を見、もう一度スケッチを見てから「一番目だ」と断言した。
「なぜ分かる」
「この部分……右下の方に、小さいが深い傷がある。せっかく美しい造形なのに勿体ないことだと思ったから、よく覚えている」
「分かった。下がりたまえ」
年若の警官はあからさまにむっとした顔を見せたが、何も言わずに引き下がった。
警官の足音が遠ざかってしまうと、蛇川は封筒の中身をおもむろに手にあけた。
「ああ、ああ……そんなにぞんざいに扱って」
山岡の小言もどこ吹く風で、蛇川は睨みつけるように手鏡を見ている。やがて、その唇がめくれ上がった。
「これはまた……。山岡巡査、分かるかね」
あろうことか、蛇川が放って寄越した手鏡を慌てて受け止める。思わず怒鳴ろうとしたが、自分が置かれた立場を思い出し、ぐっと堪えた。
「頼むから、大切に扱ってくれ。大事な証拠品なんだ」
「ならばしっかり捕まえておきたまえ。勝手に歩き出して、また気ままに若い女を殺して回るやもしれんぞ」
「なにぃ?!」
突拍子もない言葉に思わず目を剥く山岡だったが、促されて注意深く手鏡を見た途端、背筋をぞくりとしたものが走った。
年若の警官が言っていた『小さいが深い傷』というのが、彼が説明した通り、右下についている。
山岡が手にしている手鏡は、昨日焼け死んだ七緒のもの――三番目の事件のものであるにもかかわらず。
「な、なぜ……。この傷は、一番目の手鏡についているものじゃ……」
「娘たちは、似た手鏡を持っていたんじゃあない。まったく同じ手鏡を持っていたんだ」
「莫迦なっ! そんな……そんなふざけた話があるか! 一番目のものも、二番目のものも、所轄の警察署で厳重に保管されているんだぞっ!」
「声を落とせ。言ったろう、己の範疇にないものをただただ『あり得ないこと』と断ずるは莫迦の所業だ。柔軟に考えたまえ。
それに、事実あり得ないものかどうかはその目で確かめればいいことだ。保管されているはずの一番目、二番目の手鏡が、今も変わらずそこにあるかどうか……っと、まあ待て」
言い切らないうちに部屋を飛び出そうとした山岡を、その襟首を掴んで止める。
「なっ、なっ」
「僕が思うに、こういう場合、事象の発生には一定の規則性があるはずだ。期間的なもの、あるいはそれを誘発する別な事象の発生の、概ねどちらか。山岡巡査、今回の事件が起こった日にちは?」
蛇川の暴挙に憤慨していた山岡だったが、ぶすむくれながらもすぐに答えた。
「……最初の事件が十月の十八日。二番目が翌十七日で、三番目は昨日だ」
証拠品が築地所内で保管されていないという以上、一番目、二番目の事件は少なくとも山岡の管轄ではないはずだ。それにもかかわらず事件発生日を諳んじられるということは、一連の事件に対する山岡の熱の入り具合が見て取れた。
蛇川は拳を口元に押し当てる。
「十二月十七日。ぴったり三十日刻み、新月の日だ。古来、鏡は月に例えられる代物だしな……事件が発生するのは新月の日である可能性が高い、か。おい、女が焼け死んだのはいずれも夜だったんだろうな」
「ああ、その通りだが……。しかし、その周期とやらを知ってどうする。まさかあんた……」
蛇川は黒い革手袋をはめた拳をどけた。その口元はにやりと歪んでいる。
「そのまさかだ。次の新月の日の夜、鏡が動き出すのを張るのさ」