二十二:太夫の手鏡
山岡を伴って廃ビルへと戻った蛇川は、顎をしゃくって彼に扉を開けさせた。回らない把手に戸惑ったあと、山岡は扉を引き開けた。
「やれやれ。もとよりあんたは僕の客だったわけだ……分かった、入りたまえ」
扉のカラクリを知らない山岡は、不思議そうにしながらも促されるまま室内へ入る。そろりと足を差し出した途端、鋭い声が飛んだ。
「踏むなよ。大事なものなんだ」
足を上げたまま、山岡はその着地点を探す。大事なものなら、それ相応に扱えばよいのに……。床には、何と書いているのか判別もつかないような書類やら本やら、千切れた頁なんかが散らばっていた。
慣れた様子でひょいひょいと障害物を飛び越え、奥にあるデスクへと近付く蛇川の後を、おっかなびっくり山岡が追いかける。
ようやくの思いでデスク前まで辿り着くと、艶やかな黒髪の少女が椅子を運んできてくれた。
「おや、ありがとう」
お礼に笑顔で答えると、くず子は部屋奥の扉へと消えていった。愛らしい少女の姿に、微笑みながらその背を見送っていると、デスク向こうから不機嫌な咳払いが聞こえた。慌てて山岡は正面へと向き直る。
「可愛らしいお嬢さんじゃないか。妹さんかね?」
「質問するのは僕の役目だ。それで? あの鏡はなんだ。あんたはなぜそれを探している」
短気な骨董屋に急かされ、山岡はぽつりぽつりと語り始めた。
最初の事件が起こったのは二ヶ月前。さる呉服屋の若女将が、深夜、ひと気のなくなった往来で焼け死んだ。
この世のものとは思えない絶叫に叩き起こされた人々は、美しい着物を烈風に舞わせ、狂々と回りながら燃える若女将の姿を見たという。
この一件は、自殺ということで片が付いた。
若女将の不貞が露見したためだ。
この時代、女性の立場は弱かった。女は亭主に仕えるというのが当然の価値観であったこの当時に、女が浮気するということはとんでもない御法度だった。
次の事件が起こったのはそれからちょうど一ヶ月後、若い女性の焼身自殺というショッキングな話題が、ようよう紙面から消えたころだった。
「二番目は学生だった……昨日死んだ子と同じ、十六の女の子だったよ。炎に焼かれて気が触れたか、大声で叫ぶあまりに顎が外れていてな……。
焼け焦げて、生前の姿はもはや偲びようもなかったが、とても人間とは思えない有様だった」
「その記事ならば僕も見た。結局二番目も自殺で片付けられていたな」
暗い目をした山岡が「ああ」と頷く。
「警察がやったことは犯人探しではなく、死んだ子の身辺の粗探しだった。それを新聞記者に流して……」
「ゴミ溜めに群れる、卑しいカラスの糞のような記事だった」
「昨日の子のことも、奴らは自殺で済ませようとするはずだ! 事件性には目をつぶり、己の保身ばかりを考える……クズどもめっ!」
ふうん、とどこか満足げに鼻を鳴らした蛇川が、ゆったりと背もたれに身を預けた。長い足を持ちあげると、デスクの上でゆるく組む。憤る山岡の鼻先で、底を擦り減らせた革靴がゆらゆらと揺れた。
「山岡巡査。言っちゃ悪いが、あんた、出世とは縁遠いたちの人間だな」
「……怒る気にもなれん」
溜まりに溜まった憤慨をスカされた形の山岡は、苦笑しながら顔の横で手を振った。
確かに蛇川の言うとおり、出世には無縁そうな――ありていに言えばうだつの上がらない中年男ではあるが、つぶらな瞳からは優しい人柄が伺える。
だが、蛇川からすればそれこそ無用の長物といえた。彼にとって山岡の持つ『優しさ』とはすなわち『弱さ』であり、『己への甘さ』であった。
あからさまな侮蔑の視線を投げかけながら、蛇川はにやにやと口元を歪めた。
「まあいいさ。おおよそのことは分かった。その三件の焼死事件に、なんらかの形で例の手鏡が関わっていたんだろう。だがその情報を、警察は握り潰そうとしている。もしこの三件が連続殺人事件だったなら、警察は世間からひどい批判を受けるからな。人を焼き殺すなどと派手な所業を、しかもこの短期間に三度もやらかしている殺人鬼を、いまだ野放しにしているわけだ……新聞各紙に『無能警察』の文字が踊る日も近いな」
「あまり虐めんでくれ。全員が全員腐ってるわけじゃあない。気骨のある奴もいるさ」
「末端がどう踏ん張ろうが関係ない。巨大な組織ってやつは、核が腐れば呆気なく終わるもんだ」
山岡は視線を尖らせたが、なにも言わずにため息をついた。膝に肘をつき、前屈みになって眉間を揉む。
「……俺はお前さんと口喧嘩しに来たんじゃないんだ。当初の目的に戻ろう。あんたなら、なぜ俺が鏡を探しているのか、もう分かっているんだろ」
「次の犠牲者を出したくないんだろう。まったく、人のいいことだ」
「警察官が市民の命を守ろうとするのは当然だ。それで、何か分かりそうか?」
「いや、分からん」
あんぐりと口を開ける山岡の目の前で、革靴を履いた足が優雅な動作で組み替えられる。
「焦るなよ山岡巡査。今はまだ導入部分に過ぎん」
本題はここからだ。革手袋に包まれた拳を頬に当て、くつくつと蛇川は笑いを漏らした。
「被害者の共通点は『若い女』ってこと以外にも何かあるのか? 二番目、三番目が学生ってのも気になるが……。その手鏡は、元々被害者らの持ち物だったのか?」
「いや、どうにも違うらしい。ただ、死ぬ数日前から、それらしい手鏡を持っている姿が見られていたと聞くが……死を招く呪われた手鏡、なんてな」
その言葉に蛇川が視線を上げる。鋭い目付きとかち合うと、山岡は苦笑して「悪い冗談だったな、忘れてくれ」と謝った。
しかし対する蛇川は、存外これが大真面目だった。
「いや、山岡巡査。無くはないぞ。元来、鏡というものは念の籠りやすいもんだ。
我が国における古代の祭祀でも、鏡はなんらかの形で用いられていた。どういった役割を果たしていたかはいまだ研究段階だが、遥か昔より、ヒカリモノと尋常ならざるもとが、切っても切れぬ関係とされてきたことは確かだ」
「おいおい、ちょっと待ってくれ。不謹慎な冗談を言ったことは謝るが、まさか本当に鏡が原因で人が死ぬなんてことはあるまい」
「なぜそう言い切れる? 己が知らぬ、見たことがないだけのものを『あり得ないこと』だとただ断じていては、いつまで経っても世界は矮小なままだぞ、山岡巡査」
デスクから持ち上げた足を勢いよく振り下ろし、その反動で立ち上がる。部屋の隅にある外套掛けに大股で歩み寄ると、よく手入れされたツイード地のインバネスコートを剥ぎ取った。
シュッと小気味いい衣擦れの音を立てながらコートに袖を通すさまを、ただぼんやりと見つめていると、眉間に皺を寄せた蛇川が不機嫌な声をあげた。
「何をぼさっとしているっ! 善は急げだ、山岡巡査。僕にその手鏡を見せたまえ!」
「ええっ、そんな無茶な!」
山岡は慌てて自分のコートを引っ掴むと、床に散らばった書類を跨ぎ越えながら蛇川を追う。気の早い骨董屋は、すでに入り口の扉に手を掛けていた。
「こうして部外者に情報を漏らしているだけで免職モノなのに、大事な証拠品を見せるなんて立ち回りが許されるわけないだろう! ただでさえ、警察上層部がひた隠しに隠したがっているものなのに……」
インバネスコートに縋りつく山岡を邪険に振り払うと、蛇川はさも不愉快そうに外套を撫で整えた。革手袋をはめた手が、神経質そうに山岡の作った皺を伸ばしていく。
山岡には視線もくれず、苛立った様子の蛇川が言う。
「その手鏡とやらを保管しているのは築地署かね」
「あ……ああ、昨日の分に関してはそうだが……」
「なら話は早い。寄り道しよう」
言うが早いか、今度こそ蛇川は店を飛び出していった。




