一:童喰らう鬼
この世には摩訶不思議な入り口が存在する。
落ちれば最後、二度と這い上がることのできない、深海よりも昏い孔へと続く入り口。
まるで世界が平らかな一枚の岩で、その中央に吾唯ひとりが残されたかとすら思える、満目の大地に続く入り口。
天も地も、音も、時間すらもなく、思考も理想も概念すらもない、ただひたすらに何も無いどこかへ続く入り口。
あるいは、ついうっかりと閉じ忘れられた、本来、生きた人間では通り得ぬ入り口……
何を莫迦なと思ったろう。
絵空事を間に受けるのも程々になさい、奇怪な本ばかり読んでいるからいけないのだと笑ったな。
しかし事実だ。そのような入り口は、無数にある。
そんな入り口のひとつが、文明開化目覚ましい、ここ帝都東京にもあった。
その外見は、ごくごく普通の扉状をしている。
木製の板に、真鍮製の把手がひとつ。目の高さほどに明かり採り用の小窓があって、スリ硝子が嵌められている。上下の階にある扉も同じ形状をしているから、それがこの雑居ビルの仕様なのだろう。
小窓の下では寄木細工のプレェトが揺れていて、経年のために少し薄れて読みづらいが『骨董屋・がらん堂』の文字が彫りつけられている。文字は、屋号よりも『骨董屋』のほうが少し大きいが、それはよろしい。ともかく、それがこの店唯一の看板だ。
棒が生えた大福のような形をした把手は、しっかりと固定されていて、右にも左にも回らない。それが仕様なのだから。
びくともしないハンドルにまず来訪者は戸惑い、回る役割を持たないものと理解し、次いで押すべきか引くべきかを考えてみて、十中八九が押してみる。
押し開けると、銀座の隅にある雑居ビルの一角にしては、意外なほどに明るい空間が来訪者を迎える。
壁という壁には遠目に見ても高直と知れる品々が並び、少しばかりの埃くささを伴いながら、己が歴史を語りかけてくる。
赤銅色の香炉、華奢な胴に黄金の竜が巻きついた見事な煙管、中に鮮やかな花弁が閉じこめられた、硝子でできた涼やかな茶器。それらの品々が胸を張り、口々に己が来歴を誇っているさまは、圧巻のひと言だ。
すっかり言葉をなくして魅入っているあなたに、いらっしゃいまし、と柔らかな声がかけられる。
にこにことした和装の老人だ。節くれの目立つ指を鳩尾のあたりで組んだ、様子の好い初老の男。この骨董屋の主人だ。
その目尻に、小魚が群れるように走った数々の皺を見て、なんと優しげな店主だろうかと大半の客は安心する。
だがもし、把手を引いていたら……
小澤は、引いた側の人間だった。
「引いてしまったらば、僕の客だな」
部屋の主人が、笑いを含んだ声でそう告げる。
掛けられた鈴がカロカロと音をたてる。
扉の動きに引っ張られ、古紙の匂いが頬を撫でる。遅れてやってくる珈琲の濃密な香り。
ガランドウと名乗っておきながら、床という床には隙間なく物が散らばっている。恐ろしく値が張りそうな革の表紙の書籍、綴じが外れてバラバラになった、紙屑としか思えぬ頁の数々、蛇がのたくった跡にも似た文字が書き連ねられた和綴じの本に、複雑な図柄ばかりが並ぶ日灼けした紙。
真新しいものもあれば、相当に古めかしいものもあり、その価値については判然としない。
東京・銀座の片隅にある雑居ビルにこんな異質な空間があったかと、扉を後ろ手に閉めたまま、小澤はすっかり硬直してしまった。
猿のような子豚のような剥製が転がっているかと思えば、持ち手の錆びついた鋏が無造作に落ちていたり、その様はただひたすらに「雑然」そのもの。
その雑然の向こう、部屋の中央やや奥寄りに、艶艶とした木のデスクが鎮座している。
行儀悪くも組んだ足をそのデスクに乗せ、懐中時計を片手で弄っている男がこの部屋の主人、蛇川だ。
蛇川は、部屋の異様さにあんぐりと口を開けた小澤を上から下まで観察した。その視線にはあからさまな侮蔑の色が浮かんでいたが、小澤にそれを気に留める余裕はない。
壮年を迎えてでっぷりとした訪問客の腹回りを一瞥し、ふんと蛇川が鼻を鳴らすと、ようよう小澤は我に返った。
「こ、ここが……がらん堂かね」
「扉の表札を見なかったのか? 物見遊山気分で訪れていい場所ではないぞ、ここは」
自分よりふた回りは歳若に見える男の尊大な口振りに唖然とする小澤に「まあいい」と吐き捨て、蛇川は懐中時計をデスクに置いた。足をどける代わりに肘をつき、黒い革手袋をはめた両手を組むと、その上に高い鼻を乗せる。
革手袋の向こうに隠れた口が、にやりと三日月状に歪んだ。
「単刀直入にいこうじゃないか。把手を引いたということは、あんた……見えちゃあならんものが見えちまうんだろう。だからこちら側へ来た」
ごくりと喉を鳴らして小澤が唾を飲みこむ。
蛇川はくつくつと低く笑うと、背凭れに体重を預けて両腕を開げた。
「歓迎しよう。ようこそ、『骨董屋・がらん堂』へ」