一八:崖下の居城
一切の音が絶たれたその空間は季節を問わず寒く、足を踏み入れるだけで肌が粟立った。
壁という壁には蛇がのたくったような筆跡で何か書きつけられているが、字か記号かすらも判然としない。
そこは、昔の刑場にありそうな禍々しい拘束具がぽつりと置かれた、ぱっと見には拷問部屋のようであった。
拘束具は屋敷を支える柱と連結され、熊が相撲を取ったところでびくとも動かないような造りになっている。
柱の先、高い天井付近には美しい虹梁が見える。元は雅やかな部屋であったものを、特別に改築したらしい。
蛇川は青ざめた顔で、木と鉄でできた拘束具に指を沿わせた。木の部分には、うっすらと赤黒い染みが見えた。
「蛇川殿」
後ろ手をして控えていた高城が、少しばかり遠慮がちに声をかける。
「ああ……やってくれ」
言うなり、蛇川は両腕を袂のうちに引っこめて諸肌を脱いだ。上質な布地が華奢な背中を滑り落ちる。
露わになった白い肌は、幾何学模様や梵字や、判別すらできない様々な記号で隙間なく埋め尽くされている。そのうちの一部、右腕から肩にかけた部分に、墨の色が薄まっている箇所があった。封の力が弱まっているのだ。
高城が敷いた座布団の上に、静かに蛇川が膝を突く。
その膝裏にも薄手の座布団を挟ませると、太股から脛にかけてを、着物の上から布で縛った。さらに上から厚手の布を巻き、上から別な太縄を巻きつける。
高城の巨体をもってぎりぎりと締め上げられ、蛇川は思わず苦痛の声を漏らした。
「痛いですか」
一応、形ばかりの配慮の声がかかる。
「痛いさ。だが、必要なのだろう」
「……恐れ入ります」
高城はわずかに目を伏せると、手早く蛇川を縛り上げていく。
正座した蛇川の身体を器具の前まで押し進めると、一側面にだけ穴が空いた、底のない箱を取り出した。
揃えた腿の上に座布団を置くと、穴をそこに重ねるようにして上から箱を覆い被せる。蛇川の足がすっかり箱に隠れてしまうと、箱の両端と拘束具とを繋ぎ合わせた。
拘束具を支える柱の一本から垂れた縄を掴むと、蛇川の腰の後ろをぐるりと回し、反対側の柱へ結びつける。この上なく危険な囚人でも扱うかのような、厳重で容赦ない拘束だ。
「腕を」
大人しく指示に従い伸ばした蛇川の腕を、拘束具に取り付けられた手枷に嵌める。
手枷は、厚い木の板でできている。上下二枚に分かれており、どちらにもふたつ、半円の穴が開いていて、それを組み合わせてできる丸の中に腕を差しこむ仕組みだ。
その丸の周囲には、まだ比較的新しい血がついていた。前回、首周りに墨を入れ直した際、あまりの痛みに暴れた蛇川が、自らの腕を傷つけた時のものだ。
同じ轍を踏まないようにとの配慮か、綿を包んだ布で覆われたその穴を見て、蛇川が自嘲気味に鼻を鳴らした。
「今回やるのは右腕のところだろう?」
「と聞いております」
「首のところは、まだ大丈夫かね」
「素人目には……」
曖昧に濁し、細竹でできた猿轡を示す高城に、蛇川は苦笑を漏らした。
「あんたほど、鉄面皮という言葉の似合う男は知らんよ」
「……」
その声に憎まれ口らしい響きはない。
いつもの蛇川からは考えられない、懇願するような、それは弱者の声音であった。
痛みに錯乱して舌を噛まぬようにと、しっかり猿轡をかまされた頃、翠が静かに部屋へと入ってきた。
「ご苦労やったな。下がってええ」
翠に深々と一礼し、次いで蛇川の背に向かっても頭を下げると、高城は静かに退出した。
しばしの間、準備のために翠が立てる、わずかな物音だけが部屋を満たす。
翠の細い指につままれた針には、驚くほど小さな文字で梵字が彫りつけてある。ただ、いくら小さかろうが文字が書けるだけの幅、針は太いということだ。それはすなわち痛みの強さに直結する。
針の先から、少し粘り気を帯びた墨汁がぬらりと垂れた。
「ほな――始めよか」
蛇川がゆるゆると息を吐く。
腹の底から空気をすべて吐き出してしまうと、瞬間、ふっと短く息を吸いこむ。
蛇川の、あまり鍛えられてはいないが、必要最低限蓄えられた筋肉が、にわかにその存在を主張する。
その膨張がやや収まるころを見計らい、翠はその肌に針を刺した。
ぐう、と蛇川が呻きを漏らす。
かまされた猿轡が強い力で圧され、軋む。
しかし翠に躊躇はない。二度、三度と針を刺していく。
刺された穴から出た血が球状となって盛り上がり、蛇川の体を彩っていく。
針が一層深々と突き立てられると、歯を食いしばって耐え忍んでいた蛇川の口から、獣のような咆哮が漏れ出た。
動きもしないのに身体中からは玉の汗がふき出し、肌からはうっすらと湯気さえあがっている。翠の顔もまた、脂汗で濡れている。
二人とも、決死の覚悟で闘っていた。




