一七:崖下の居城
「……臭さ」
胡座をかき、ぶすむくれた蛇川が畳の目を荒らしていると、崖に面した回廊側の障子がからりと開いた。
生々しい岩肌を背に、豪奢な着物の女が立っている。
ゆるく波打つ髪は顎のあたりで切り揃えられており、顔の上半分は『目』の象形文字を横にしたような、珍妙な柄の布で覆われている。そのため顔の美醜は判じがたいが、赤みを帯びた小ぶりの唇が、どこか気品を感じさせる女であった。
その唇は、形よく縦に伸びたり丸くすぼまりしながら、しかしこの上なく苛烈な毒を吐く。
東に『銀座の凶王』こと蛇川あり、西には大自在に通力を操る女・翠あり。
そう並び称せらるる程、女だてらに気の強い女性である。
「臭さァてかなわんわ。蛇川はん、あんたはんまた不養生したはったやろ」
「久しぶりの挨拶で開口一番『臭い』とはなんだッ。人間性を疑うね」
吾妻が聞けば目を剥きそうな台詞を飄々と吐いてぬかし、蛇川は千切ったい草を吹いて飛ばした。
翠は、響きだけはゆったりとした、しかし内容に容赦はない京都弁を話す。
屁理屈を言わせたら帝都一と揶揄される蛇川をもってしてさえ、口喧嘩でもそうやすやすとは勝たせてくれない強敵である。
「こっちからしたら、そんな悪臭ばら撒いて平気な顔しとるあんたはんこそ人間性を疑うわ……ぷんぷん臭うんや、鬼の臭いが。痛いのは厭や言うて、うちの呼び出しにもなかなか応じひんあんたはんが悪い」
「痛いもんを痛いと言ってなにが悪い! 言っちゃならんならなぜ『痛い』という言葉が存在しているのだ」
「言葉そのものの良し悪しを問答しとるんと違う。大のおとなが、あんまみっとものォ喚くんやないと言うとるんや。話をすり替えようとしなや」
厳しくそう言い放ち、ようやく室内へと足を進める。立てた襖に白い手を添え、ゆっくりと、慎重に。
膝を払い、畳に腰を下ろす。上品な衣擦れの音が鳴る。
翠は折り目正しく三つ指をついた。
ただそれだけで、その場の空気ががらりと変わる。
一礼し、面をあげた翠の顔は、蛇川がよく知る口喧嘩相手のそれではない。
凛と強く、美しい。どこか厳かで、静謐な面持ち。
「ようこそお越しくだされました。かくも遠き地までわざわざの御運び、篤く御礼申し上げ奉りまする。憚りながら翡翠自然流彫り師、六代目当主・翠。針の儀、謹んで勤め上げさせていただきます」
蛇川も足を正座に組み直し、両の拳を膝に置いて点頭する。
崖の岩肌を、鳥がさえずりながら飛んでいく。
壮大な自然の有様を背に、佇まいの好い男女が軽く頭を下げあっている様は、一枚の日本画のような趣きがあった。
ふうと小さく息を吐き、翠が顔をあげる。
「ま、こんなところでよろしいやろ」
さっと立ち上がると、そばに控えていた男がすかさず樫の杖を差し出した。
翠は、いや、翡翠自然流彫り師を継ぐ代々の当主は、みな押しなべて後天的な盲であった。
杖で畳を軽く探りながら、翠が振り返る。
その口元は、妖艶な笑みをたたえていた。
「ほなお客人……ごゆっくり」
「早々に帰らせてもらう!」
一切の光を捉えられないにも拘わらず、翠はほとんど杖にも頼らずに、確かな足取りで部屋を出て行く。
その背中に向かって、知る限りの悪態を並べ立てる蛇川の声が追い縋ってきた。
杖を差し出した大男が、鋼鉄のごとき顔のままで言った。
「相変わらずですね、あの御方は」
「あれは死んでも黙る類の男ではない」
苦々しげに吐き捨てる翠が、ふと足を止める。
その顔は蛇川と無駄口を叩いていた時とはまるで違う、ぞっとするほどの真剣みと、わずかな怒りを帯びていた。
「あの阿呆……自分がどんなけ危うい橋渡っとるか、分かっとるんやろか」
◆ ◆
それから数日、蛇川は傍目には平穏極まりない日々をすごした。
好きなだけ朝寝坊をし、陽気に誘われてはすすき野に遊び、ただ果てなく蝶を追いかけてみたり、秋の七草の採集に勤しんでみたり、青草を咥えて寝転び、吹く風に髪を遊ばせてみたり……
蛇川は、いつもの洋装から和装へと姿を変えている。鋼鉄の顔の大男――高城という翠の従者が仕立ててくれたものだ。
質のいい着物に襟巻き姿の蛇川は、痩せぎすの体のせいで貫禄こそはなかったが、世を捨てたどこぞの若旦那にも似た風格があった。鋭さの欠片もない瞳は、どこか達観して見える。
到着初日こそ喧しかった口も、二日、三日と時を過ごすにつれて大人しくなり、やがて口元には常時微笑を湛えるまでになった。平時の蛇川を知る者が見れば、卒倒しかねない変貌ぶりである。
いま蛇川は、翠に言わせると『魂を抜く』作業に入っていた。
現世では翠だけが執り行える、鬼封じの刺青。
それは、魂の皮一枚隔てたところへと針を入れる際どいものだ。
誤って魂に針を刺してしまってはどうなることか、知れたものではない。
そのため、施術の前には念入りに魂を清め、鎮める必要があるのだが、これを翠は、多少の自虐もこめて『魂を抜く』と表現していた。
通常一日もあれば済む作業であるが、ことに猛々しい魂をもった蛇川などは、三日では効かない時間を要するのだ……
やがて、腑抜けた善人と化した蛇川に、夕食の席で彼の好物が供された。
赤みがかった玉子のオムライスに、一盞の清酒。それに、色取り取りの金平糖。
蛇川は小鉢に盛られた金平糖を箸でつまむと、憂いを帯びた溜息をつく。
「今夜かね」
「ああ。もう十分に浄化したやろ」
「まあね……身体にの内に、常に涼風が吹いているかのような心地だよ」
どこか虚ろに返しながら、蛇川はとろける黄色の玉子にスプンを差しこんだ。これはいわば、最後の晩餐というやつだ。
ちびりちびりと、金平糖を一粒ずつ舌の上で楽しんでいた蛇川であったが、やがて食事を終えると、観念したように立ち上がった。
高城に伴われ、崖のさらに深い場所、居城の最下層へと降りていく。




