一六:崖下の居城
西へとずっと下っていった先に、およそひと気のない無人駅がある。
使われた形跡がほとんどない改札口では、老いた猫が一匹、のんきに伸びをしている。カァ、と黒々とした口を大きく開けて欠伸してから、わざとなのか偶然なのか、片目だけを開けて蛇川を伺い見た。どこか遠くから、コォン……と木を打つような音が、ゆるく間隔を空けつつ聞こえてくる。
どこまでも長閑なはずのその風景は、しかし蛇川にとっては悪夢そのものだ。
叶うことなら、この先の生涯で二度と訪れたくはない。
毎度そう願いながら帰路に着くのだが、その願いが叶えられたためしはなかった。
改札を出ると、前にあるのは一本道だ。
両脇には田圃が続いており、刈り入れ時を前にした稲穂が、重そうに頭を垂れている。
気取った言い方をすると、黄金の絨毯ーーその上をオニヤンマが悠々と飛んでいるが、しかし、それを見たところで蛇川の沈鬱な気持ちは払えなかった。
とぼとぼと、全身で「今すぐにでも帰りたい!」と訴えながら道を行く。
終始そんな調子だから、普通の足で歩けば一時間ほどなその道を、蛇川はたっぷり三時間近くもかけて歩く。いつもは恐ろしく速足なこの男が、まるでタアルの樽に足を突っ込んだ間抜けな作業員かのように、粘ついた足取りを見せている。
さらにそこからは山道だ。
山道に入ると、道の悪さも相まって、蛇川の足はさらに遅くなる。
そのままいけば、目的地に着くころには季節が移り変わっているのではと心配になるほど亀の歩みであるが安心してほしい、山道を少し登ったところで迎えが来る。
蛇川にとっては、地獄からの遣いそのものであった。
その、地獄からの遣いは、蛇川を見ると日に焼けた手をぶんぶんと振った。
遠目には、久しぶりの来客に喜んで尾を振る犬のように見える。
「おおい、蛇川はん! こっちじゃ、こっち!」
蛇川は、薄い目蓋を持ち上げるのすら億劫だ、と言いたげな顰めっ面で声の方を見た。
「ああ騒がしい……。犬鳴か……二度とその面、拝みたかないと思っていたよ……」
「はっは! 残念じゃったな!」
犬鳴と呼ばれたその男は、まだ十四、五歳にも見える少年だった。
昔話の金太郎が着ているような腹掛にたっつけ袴、足元には脚絆を巻いた、なんともちぐはぐな出で立ちである。極めつけに、はね放題の黒髪を紅白の細縄で高く結い上げている。
ひと昔前の言葉でいうなら、歌舞伎者。まさにそんな塩梅だ。
生い茂った葦を踏み分け、犬鳴は尖った歯を見せて笑った。
「しっかし、あんたも相変わらずじゃのう。ミャアが『また蛇川はんが死にそうな面下げて来おったわい』と笑っとったぞ」
ミャアというのは、駅で日向ぼっこをしていた老猫だ。永く生きすぎたために、普通の猫では持ち得ぬなにかを備えている。
次に会ったら改札から追い落としてやると舌を打ちながら、その実、次に会う帰り道では疲労で指も動かせずにいるため、とてもそれだけの元気はない。
それでいて、更にその次会う頃にはそのこと自体を綺麗さっぱり忘れているから、今のところミャアに実害はなかった。
さて、犬鳴。
力が強かったから金太郎印を纏っているのか、あるいは金太郎印をつけているからそうなったのか、どちらが先かは分からないが、とにかくこの犬鳴は力持ちだった。そして無尽蔵な体力の持ち主でもある。上背はあるが細身である蛇川などは、片腕でも担げてしまうだろう。
しょってきた背負子に座るよう示し、にっかと白い歯を見せる犬鳴に、蛇川は観念したように身を預けた。
それからはもう、無我の境地だ。
猿のような力強さで山肌を駆け上がっていく犬鳴は、背中の『荷物』には欠片の遠慮もないらしい。振り落とされぬよう、ただただ夢中で背負子にしがみつく。
群生する木を避けるため、上下だけでなく時に左右にも大きく揺れるその乗り物に、荷物こと蛇川は顔を青くするばかりだった。
やがて唐突に平らかな場所に出る。
更に少し行くと、これまで視界を塞いでいた木々が散る。眼前には、どこまでも続くかと思われる満目の緑。
突如開けたその景観の素晴らしさに、訪れた者は言葉を失うというが……蛇川はというと、別な理由から言葉を失くしているらしかった。
「もうすぐじゃぞ、蛇川はん!」
ここまで来ても呼吸ひとつ乱さない犬鳴は、もはやなにかの妖であるかのようにも思われた。
犬鳴が目指す先には、一軒の茅葺きの小屋がある。
崖を背にしたそれは、遠目には打ち捨てられ、朽ちた物置小屋にしか見えない。
しかしその内には、地中へと通ずる秘密の階段が隠されている。
崖の側面をくり抜いた、人目を忍ぶ広大な居城への入り口が、そこにはあった。




