一五:廃墟ホテル
次に目を覚ました時、蛇川は畦道の土手を頭に寝転んでいた。
時は夕暮れ。蛇川がホテルに飛び込んだ刻限とほぼほぼ同じ頃合いだ。
まやかしの部屋で、確かに数日を過ごしたはずだというのに、太陽も雲もまるでそれには無頓着で、羽虫さえも、なんだか人を小馬鹿にするような羽音を立てて飛んでゆく。
首の下には何か柔らかなものが差しこまれていて、見れば、悪趣味極まりない柄のストオルが枕代わりに丸められていた。
「あ、気がつきましたか」
不意に投げかけられた明るい声に、蛇川はその方向へと首を捩った。夏見である。
少し離れた場所に腰掛け、手にした細い枝で雑草を叩きながら、夏見がにこと人懐っこい笑みを見せた。
その向こうに見える、崩れ切った廃墟――入り口はもう、どこにもない。
「魂まで持って行かれたかと思いました」
よいしょ、と歳に似合わぬ呟きと共に夏見が立ち上がる。枝を捨てると、そのまま組んだ両腕を頭上高くにうんと伸ばした。
いまいち状況が呑みこめないのか、蛇川は上体を起こして辺りを見回した。
何かの鳥が、遠くで鳴きながら飛んでいる。
傾きはじめた陽が、ひと気のない商店街と、廃墟とを赤く染めている。
どこまでも長閑な、田舎の情景だ。
優しい風に持ちあげられた髪を押さえ、独り言のように夏見が呟いた。
「驚きました。ああいう祓い方……いや、なんていうんだろう、導き方……そういう道も、あるんですね。最後にあなたが悠人くんに言った言葉が、すごく――すごく、耳に痛かったです」
――お前の気持ちは分からんでもない。
――だが、お前のわがままで哀れな魂を弄ぶことは許されない……
蛇川を真似ているつもりか、むすっと顔をしかめながら夏見が言った。かと思えば一転、破顔する。
「魂ってのを『鬼』と置き換えると、あれってそのまま僕のことだって、そう気付かされたんです。僕は、今まで鬼が哀れな存在だなんて、考えたこともなかったけれど……」
呆然としている蛇川に、夏見は少し照れたように笑いかけた。
「貯水槽の前で、僕、寒いって言いましたよね。寒かったんです、心の底が。ひどく、体が震えていた。……怖かったんですね、認めたくはなかったけれど。自分が力づくで押し切ろうとしたものが、祓ってしまおうとしたものが、どんな思いを抱えていたかなんて……そんなこと、知りたくなかった。知って、普通でいられる自信がなかった」
鬼の名前だなんて、聞いたことがなかった。
考えたことだってなかった、彼等にも名があることを――彼等もまた、かつてはヒトであったことを。
「僕にとってはね、骨董屋さん。鬼は、憎むべき相手じゃないと、やり切れないんですよ」
ヒトの道理も、理も通じない、到底分かりあうことのできない存在。
周囲に不幸を撒き散らし、魂を弄ぶ、憎むべき敵。
「だけど、そう思いこむことって、僕の幼稚なわがままだったんですね。……思い知りました。僕は、まだまだ未熟者です」
勉強させていただきました。
晴れやかな顔で頭を下げる夏見に、ようよう蛇川が口を開いた。
「……涙」
「はい?」
「涙は、どうした。鬼の涙は」
「鬼の涙? 悠人くんは確かに大泣きしていましたけれど、それが」
「違うッ、鬼の涙だ! 流れなかったか、僕の瞳から!」
突然の剣幕に、夏見が思わず身じろぎする。
逃すまいと、蛇川はその肩を掴んだ。
ホテル内にあっては、激することこそあれ「全て我が掌の上にあり」とばかりの堂々たる態度であったものが、目をひん剥いて狼狽えている。
あまりの変貌ぶりに、夏見の笑顔が引き攣った。
「お、落ち着いてくださいよ。そう怒鳴られても、何が何だか……」
「これが落ち着いていられるか! あんた、僕の短剣を鞘に収めたんじゃないのか!? その時、僕の瞳から涙が流れたろう! きらきらしい、どんな宝石にも劣らぬ涙がッ!」
まくしたてる蛇川の質問に「そういえば」と夏見が手を打った。
「なにか、光るようなものが落ちたような。ふた粒ほど」
「ふ、ふた粒も……だと……」
「ええ。チリン、チリンと二回音がしましたから、恐らくは。……それが、どうかしましたか?」
どこかで頭を打ったかしら。
夏見は本気で心配だった。冷静で、何事にも動じなかった蛇川がこうも乱れるとは。
――夏見は、蛇川という男の認識を、残念ながら見誤っている。
「なん……ということだ! あんたはそれに気付いておきながら、涙を拾おうとも思わなかったのか!?」
「そ、そんな貴重なものだなんて知らなかったんです! それに、悠人くんが消えてから突然ホテルが崩壊し始めて……昏倒したあなたを荷物ごと引っ張ってくるので、精一杯だったんですよ! むしろ、そこに於いてはお礼を言われてもいいくらいです」
「礼など言えるか莫迦者ッ! あれがどれほど……どれほど貴重で尊いものか、知りもしないで……ッ!」
「まあ、高価なものだったのかもしれませんが、今回は勉強料ということで。僕の、ということになりますが」
「あんたの勉強料だと!? もともとあれは僕が得るはずの報酬だったんだ! なァぜそれがあんたのくだらん勉強料になど……いやその前に、あれほど高い勉強料があってたまるか!」
「くッ、くだらんとは何事ですか、くだらんとは!」
燃えるような夕焼けが畦道を濡らす。
いつまでも言い合うふたりの影が、一夜の夢のように崩れ去ったホテルの廃墟に伸びていた。
楽しげに笑う子どもの声が、春の風のように吹き抜けていったことに、二人はまるで気付いていない。
〈 廃墟ホテル 了 〉




