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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 がらん堂と、その近辺
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一四:廃墟ホテル





 蛇川(へびかわ)が言葉を切ると、しんとその場が静まり返った。


 ここには時の流れがなく、風もない。散らばる塵はどれも時間を経て古びているが、しかし尚死に去ることは許されず、風に身を揺らすこともなく、ただ白痴のように転がっている。


「不幸な事故に見舞われた君が、なぜ、鬼にならなければいけなかったのか……ここからは僕の推論だがね」


 ひらと小さく両手を振ると、再度その場は蛇川の独壇場となった。


 ここまでは吾妻(あがつま)の協力あってのもの。

 蛇川の真価は、まさにここから発揮される。


 打ち棄てられた有象無象の中から、仄かな光を帯びたものを拾い上げ、いくら積み重ねたところで十にも届かないその階段を、己の経験と鋭い観察、冴え渡る頭でもって、何通りもの、何十段もの階段を築き上げて見せる。そうして行き着く先に真実を見出だす。


 その目はまるで腕利きの時計屋のように、組み立てた推論の僅かな綻びも見逃さず、

 その耳はまるで優れた音楽家のように、相手の一言一言に含まれる微かな軋みをも捉え、

 その口はまるで老練な弁士のように、最上の、うっとりするほど好い塩梅の間を持たせながら、己が真理を紡ぎ上げていく。


「物々しい見出しが各紙面を飾って以降、ホテルにやってくる人間はがくりと減った……当然だろう。幽霊騒動であれば、物好きの莫迦が寄ってもくる余地もまだあるだろうが、遺体の浸かった水を味わいたいなんて奇人はそうそう滅多にいないし、いても御免こうむりたい。ともかく、ホテルからは客足が遠のいた。ホテル側が記事を潰そうと躍起になっても、一度去っていった人望は二度と戻らなかった」


 その様子は想像に難くない。人を相手とする商売は、だいたいが押し並べて皆信用商売だ。そして、一度失われた信用は、誰がいくら頑張ったところで、そう簡単には蘇らない。


「思うに、このホテルは地方活性化の起爆剤として、住民の期待を集めに集めた存在だったのではなかろうか。入り口の周りには、ホテルのオープンに合わせたのか、急拵えと見られる数々の店舗が散見された……ま、どれも潰れてひと気もなかったがね。しかし、住民がここにかける期待というのは並大抵のものでなかったのだろう」


 それが、小児の不注意をきっかけに、取り返しのつかない事態に陥った。


 最初は下田悠人に同情していた地域の住民らも、客足が遠のき、店の経営が立ちゆかなくなってくると、同情の声は次第に怨嗟の声に変わった。


 ――あの子さえ貯水槽なんかで遊ばなければ。


 ――あの子をホテルで預かりさえしなければ。


 ――幼子を他人の手に預けておいて、母親が身勝手に働いてなどいなければ……


たられば(・・・・)というものは、時を経るにつれて自分の都合のいいものへと次第に書き換えられていくものだ。今回の場合、ホテルが傾いた重責が、すべて下田雅子の両肩に課せられた。子どもから目を離した己らの罪、危険な場所にも関わらず、第三者が簡単に侵入できるような杜撰な管理をしていた罪。そういったもの全てに目を瞑ってな」


 そうすることで、住民らは、苦しい生活を強いられている現状への鬱憤を晴らそうとした。


 力の流れはいつだってそうだ。ある一定の許容値を超えてしまえば、溢れ出したその力は、そこよりも弱い別の場所へと流れ出してゆく。

 今回の場合、住民らの怒りの声は、更に弱い立場である下田雅子へと濁流となって押し寄せたのだ。


 しかし、もはや守る者も、守ってくれる者も亡くした彼女に、それはあまりに重すぎた……


「下田雅子の失踪事件は、当時の新聞になかなか大きく取り上げられたそうだ。下田という名は伏せられていたがね。幽霊ホテルの次の餌食となった、哀れな名も無き従業員。だが、遺体はついに見つからなかった。誰も探さなかったからだ。厭わしい、呪わしい、この貯水槽の中なんてな」


 考えまいとしても、思うまいとしても、夏見の脳裏に昏い目の女が浮かび上がる。


 夫に先立たれ、子を亡くし、愛すべき近隣の住民からは疎まれて……


 涙も枯れ果てたその顔は、とても元の年齢からは想像もつかないほどに窶れ、痩せこけていたことだろう。

 華奢なその肩は、重責を担わされて、どれほどか歪んでしまったことだろう。


 苦しかった。

 親子の、住民らの、このホテルの事情を知れば知るほどに、苦しくて堪らなかった。


 夏見にとって、鬼とは、常に憎むべき相手で、この世ならざる力で人の生活に害を成し、決して話し合えない、分かり合えない存在であった。


 しかし、現実はどうだ。


 鬼の正体は、ただ無知で、幼くて、愛されることしか知らなかった幼児ではないか。むしろ、その母親を自死に追いやった近隣住民らこそ、ヒトの理を知らぬケダモノのように思えてならない。

 夏見の目には、あの日見た哀れな子牛と下田悠人が重なって見える。近隣住民の無責任な責めが、その背を無慈悲に鷲掴みする大鳥の爪だ。


 だけど目を背けてはいけない。


 目を背けず、しかし決して同調はせず、ただ、彼の全てを理解してやるということ……


 鬼の――下田悠人の泣き声が、再び大きくなる。

 潰れた蛙のようなひしゃげた声で、歯を食い縛り、唸るように泣いている。


 その姿はあまりに醜悪だった。腐った手足が崩れ落ちていく様は、とても直視に耐えるものではない。

 足が震えるのを感じながら、しかし夏見は顔を逸らさなかった。


「母親が、己の命を奪った水の中へと落ちてきたとき、ついにあんたは鬼になった。母を殺した怨嗟の声が、己を恨む声が、まるでヘドロのように幼い魂に流れこんできた。……だがその声を、その人達を、恨み切ることはできなかったんだな。あんたの心の中には……喜んで遊び相手になってくれた皆との、優しい思い出ばかりが詰まっていたから」


 獣のようにひと声吼えると、下田悠人は大声をあげて泣き始めた。


 まるでそれを励ますかのように「泣けッ!」と蛇川が一喝する。


「泣け、喚けッ、クソガキ! 何を我慢していやがる、なに一人前に責任を感じていやがる! ホテルが潰れただの、地域活性化の夢が潰えただのの理由が、あんたみたいなガキひとりにあってたまるか! 泣け、悠人ッ!」


「うゥッ、わアァァ――ーッ!!!」


 爆発的に――そう形容するほかない勢いで、下田悠人が泣き喚く。


 必死に涙を堪えながら呻いていたさっきまでとは違う、手放しで、叩きつけるようにして涙を流す悠人。


 水で膨れ上がった彼の姿は、とても愛らしいとは言い難かったが、しかしいま、右も左もなくただひたすらに泣くその姿は、ただ己の感情をぶつけるその姿は、どこまでも子どもらしかった。


 いつの間にか、下田悠人の目の前に立っていた蛇川が、目線を合わせるように屈みこむ。


 ――ありえない。


 夏見は思わずそう叫ぼうとした。危ない、危険だと。


 しかし、喉からは熱く掠れた吐息しか出てこなかった。

 その時初めて、夏見は己が泣いていたことを知った。


「自分のせいでホテルが潰れたと、母親が死んだと……そう責め続けていたのだろう、悠人。せめてホテルがあの時の輝きを取り戻せたなら。疲れてやってきた人の心を、驚きと喜びで満たしていたあの頃に戻せたならと、そう願い続けていたのだろう」


 豪華な調度品、湯気をあげる旨そうな食事の数々、気持ちの好いホテルマン達。


 サーヴィスに満足して笑顔で去っていく無数の客と、巧みに彼等を引き込み、土産物を買わせる商魂たくましい住民ら。


「お前の気持ちは分からんでもない。だが……お前のわがままで哀れな魂を弄ぶことは、許されない」


 下田悠人は激しく喉を引き攣らせながら、涙で濡れた目で蛇川を見上げる。


「解放してやれ、あの男を。そして……お前自身を」


 蛇川が懐に手を入れる。


 赤茶けた短剣を取り出すと、ぱちりと小気味いい音を鳴らして鞘を払った。


「――斬るぞ。お前の、未練を」


 悠人は蛇川をじっと見つめて……小さくひとつ、頷いた。






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