一三:廃墟ホテル
真の姿を曝け出したホテルの一室。
無用な塵のごとき種々が散らばり、皆一様に古び、錆びて、とうの昔に打ち棄てられた部屋。
世の陰惨を煮詰めに煮詰めて凝縮したかのごときその部屋の中で、蛇川と夏見、そして、鬼と化した哀れな子どもが向かい合う。
「それがあんたの無念か」
下田悠人は、しゅくしゅくと泣きながら死体に縋りついている。
抱いた肩を揺すった拍子に、毛根の残った頭皮が死体の頭蓋からずり落ちた。長い髪の毛を伴って床に落ちたそれは、ぐじゅりと寒気のする音をたてて崩れた。
「下田雅子」
その名前に下田悠人が反応する。怯えたような瞳で蛇川を見つめる。
「あんたの母親だな。彼女もまた、この貯水槽で命を亡くしたか。責められ続け、耐えきれなくなったか……あるいは、恨みを募らせた何者かに殺されたか。いや、おそらくは前者だろう。母親はとっくに成仏している。あんたの抱えているそれは、すでに抜け殻だ」
不憫なもんだ、と蛇川が呟く。
「骨董屋さん……こ、この子はいったい……」
「彼は下田雅子の一人息子だ。病で斃れた旦那の忘れ形見で、母から、それはたくさんの愛情を受けて育った」
下田雅子は……と蛇川は言葉を繋いだ。
下田雅子はこのホテルの従業員だった。主に客室の清掃を担当していたらしい。
それなりに若く、愛嬌があり、働き者だった雅子は、従業員らの中でも人気があった。
旦那が死に、幼い息子を抱えて働き続けることは難しいかとも思われたが、彼女を心配する支配人や従業員らの好意で、雅子が働いている間、息子はホテル側が預かることとなった。そのお蔭で、彼女は職を失わずに済んだんだな。
「しかし、それが悲劇を生んだ。やんちゃ盛りの息子は、お守り役の従業員が目を離した隙に、立ち入り禁止区域へと入りこみ……そこで貯水槽を見つけた。そして上に登って遊んでいるうちに、足を滑らせ、タンクの中に落ちてしまった」
蛇川はそこで一度言葉を切った。
息をするのも忘れ、夏見はその続きを待った。
「――遺体は、長い間見つからなかったそうだ。まあ、仕方のない話だな。大人でさえ登るのを躊躇するこの貯水槽の上で子どもが遊ぶなどと、そもそも登れてしまうものだとも、誰も考えはしなかった。……遺体が見つかったのはそれから一ヶ月後。水から異臭がするという苦情を受けて、業者が貯水槽を調べた時だった」
ああ、と夏見が苦しげな声を漏らす。
それに呼応し、鬼が縋るような視線を夏見に向けた。
眉間に皺を寄せて呻く夏見に「同調するな!」と蛇川が鋭い声を飛ばす。
「取り殺されたいのか。足のある状態でここを抜け出したければ、最後まで第三者の立ち位置を貫け。観察者……そう、野生動物を観察する気構えでいろ。必要以上に干渉するな」
「や、野生動物って……そんな!」
「非道いとでも言いたいのか? つい先ごろ、彼の叫びを聞こうともせずに、全て焼き払おうとしたのはどいつだ」
蛇川の声音に夏見を責める響きはなかったが、しかし何も言い返すことはできなかった。
ぐっと歯を食いしばり、蛇川が語るに耳を澄ませる。
「彼の遺体が発見されると、にわかにホテルは慌しくなった。そりゃあそうだ。遺体が見つかるまでの間も、ホテルには間断なく客が訪れていたが……その客には、遺体を浮かべたままの水が配られていたんだからな」
新聞記者なんてものはクズの極みだ、と、蛇川が憎々しげに吐き出した。
「奴らは、発行部数を稼ぐためにはまるで手段を選ばない。事実の上に、必要不十分な下衆い文句をふんだんに散りばめて、無責任に社会へと放り出す。その文句だけが独り歩きすることなど、これっぽっちも考えやしない。当時、この事件を取り上げた新聞の紙面には『遺体入リスープデオモテナシ』だの『恐怖! 一流ホテルノ隠シ味』だの、下劣な見出しが躍ったもんだ」
――遺族は耐えられなかったろう。
ぽつりと漏らした蛇川の呟きに、わっと下田悠人が声を上げた。
水を含んで膨れ上がった喉を震わせ、赤黒い口を大きく開けて。かつて母だったモノを抱きしめて、鬼は泣いた。
夏見は思わず目を逸らしそうになったが、震える拳を握りしめて耐えた。
今、ここで事実に目をつぶるわけにはいかなかった。
――野生動物を観察する気構えでいろ。
蛇川はそう言った。
昔、動物の生態を紹介する自動幻画(映画の前身)を見たことがある。
モノクロームの世界の中で、生まれたばかりの水牛が、愛おしげな目つきの母牛に胎膜を舐め取られている。
やがて場面は切り替わり、沈むところか、登るところなのかは定かでないが、楕円状に歪んだ太陽が映る。それを背景に、母牛のあとをおぼつかない足取りの子牛が追いかけていく、微笑ましくも力強い様子が映し出される。
しかしその直後、空から突然の襲来者がやってくる。夏見が見たことも、想像したこともない大きさの、それは獰猛な鳥だった。
弁士はそれを、オオワシか何かと説明したように思う。
オオワシは、空から飛来すると、夏見の腕程はあろうかという二本の足で、子牛の胴体を捕まえた。会場のあちこちから悲鳴が上がり、弁士の説明が途切れ途切れでしか聞こえなくなった。
我が子の危機に、己が身の危うさも省みず、母牛が猛然と体当たりにかかる。
しかしオオワシは、驚異的な脚力と翼力でもって子牛を抱え上げ、生い繁る森の彼方へと飛んでいってしまう……
あの時夏見はこう思った。
あの幻画があるということは、そこに撮影者がいたはずだ。企画者だっていたかもしれない。あのような光景を目の当たりにしておきながら、助けもせず、平然とキャメラを回し続けられるとはなんと非道い……と。
それは正しく義憤であったように思う。
会場にいたほとんどの人らも同じ思いであったはずだ。
顔を赤くし、これを作った奴らは人非人だ、子牛を助けろなどと弁士を怒鳴りつける者も少なくなかったし、ご婦人方は誰もみなハンケチを目元に当てていた。
だが――果たして本当に、その場で子牛を助けることが正解だったろうか。
それが子牛のためになったであろうか。
仮にその一瞬は命を繋ぎ止めたとして、しかし自身で自然に対抗する力を持たず、ただ第三者の勝手な義憤で守られた子牛が、果たしてその先生きていけるのだろうか。
答えは夏見には分からない。
分からないが、もしも蛇川がその場面に遭遇しても、いっさいの手出しはしないように思う。ただ凝と、灰褐色の目を逸らすことなく、すべてを見届けていただろう。
それが生の営みだから。
その場限りの安っぽい同情を与えるのではない。
それそのものを理解してやること。
話せなかった思いを、聞いてやること。
蛇川の教えが、少しだけ分かったような気がした。
「……いい顔つきになった」
どきりとして、蛇川を見遣る。
しかし彼の視線は、依然として前を向いている。
夏見の疑問を感じ取ったか、鬼を見つめたまま蛇川が笑った。夏見が初めて目にする、好もしいと感じる笑みだった。
「においでわかる。僕は鼻が極めていいのだ」
さて、と蛇川が続ける。
「ただし『油断なく油断するな』よ、夏見くん。本題はいよいよ――ここからだぞ」




