一二:廃墟ホテル
等間隔で電気灯が設置されていた廊下とは打って変わって、扉の先の部屋は薄暗かった。
蛇川は目を閉じると片手で両目を覆い――やがてゆっくりと開けた。
いくらかは闇に慣れた目でもって、申し訳程度の明かりを辿り、さらに奥へと進んでいく。そのあとに夏見も続いた。
「寒い……」
歯の根を鳴らしながら夏見が言う。
確かに寒い。
ただしそれが、必ずしも気温の問題だけでないことは明白だった。
床には、壊れた家具やら食器やらが散乱している。一歩踏み出すたびに埃が舞う。
これが豪勢なホテルの真の姿であろう。
割れた食器や硝子の欠片を端へと蹴り寄せながら、蛇川は足を進めた。
しばらくも行かないうちに、向かう先に大きな影が姿を現した。錆びついた、円筒型の装置だ。同じようなものが四つ並んでいる。
そのひとつ々々は非常に大きく、仮に蛇川と夏見が手を繋いだとしても、とても抱え切れる大きさではない。
「なんだ、これ」
辺りに視線を配りながら、不安げに夏見が呟く。
低く轟くような機械の稼動音が、腹の底まで響いてくる。
「貯水槽だな」
蛇川はゆるく握った拳を、体の横に垂らしている。貯水槽? と繰り返す夏見には視線もくれず、目の前の円筒を睨み据えたまま頷いた。
「上水道用のタンクらしい。片田舎と侮っていたが、どうしてなかなか、水利設備も整っている」
だが、と蛇川はタンク下に視線をやりながら続けた。
視線の先には花束の残骸があった。
枯れ果てたそれは、まるで蹴られ、踏まれでもしたかのように、無残に花びらを散らしている。
「好奇心旺盛な子どもにとっては、いい遊び場に映ったんだろう」
はっと夏見が息をのむ。
よく見れば、その花束は、元々は死者に手向けられたはずのものと思われた。禍々しい鬼の咆哮の中に聞こえた、子供の声。
「下田、悠人……」
思わず呟いた途端、ひときわ大きく機械音が鳴ったかと思うと、それきり止んだ。
痛いほどの静寂が辺りを包む。
蛇川は低く腰を落として周囲を警戒していたが、何もないと分かるとわずかに力を抜いた。
低く、押し殺したような唸り声をあげる。
「……二度と、軽率にその名を呼ぶな。鬼と気安く目を合わせるのもいかんが、考えもなしにその名を呼ぶのはもっといかん。下手な者なら、たちまちのうちに取り憑かれる。次やったらもう一度ぶつぞ」
夏見はひどく恥じ入り、押し黙った。
実力は、備えているはずだった。
それ相応の修行も積んできたし、誰よりも努力した。
寝る間も惜しんで研鑽に励んできた。鬼を憎む心が、夏見から睡眠という安らぎを奪っていた。辛さを押し隠すため、笑顔の仮面も身につけた。
昼も夜もなく己を鍛え上げてきたはずだった。
確かな名声と自信を得て、それを手土産に帝都東京へと上がり、さらに活躍の場を広げるつもりだった。
それがどうだ。
骨董屋を名乗るこの細身の男に、夏見はすっかり圧倒されている。
無知な子どものように我儘を言い、禁忌を犯してはどじを踏み、すでに何度も救われている。
蛇川の前にあっては、己がひどく矮小な小者に思えた。
俯き、泣き出しそうな顔で己を責める夏見の耳に、カリカリ、カリカリ……と耳障りな音が届いてきた。
はっと顔を上げると、前に立つ蛇川の体が、極度の緊張感に膨らんでいた。
「反省会は大事だがね、夏見くん……そいつは無事、ここを出てからにしたまえ」
カリカリ、ギリギリという音が、次第に大きくなっていく。
それが、貯水槽の内部を引っ掻く爪の音であると気付いた瞬間、己の意思とは関係なく夏見の喉が震えた。
両手で口を押さえ、なんとか悲鳴を殺す。
屠殺される瞬間の家畜のような声が、押さえた指の隙間から漏れる。
「なぜそれほどに苦しみ続ける? 暗く、冷たい水の中で、なす術もなく死んだことが恨めしかったか? ……違うだろう。あんたを鬼にしたのは、別の何かだ」
爪の音は、もはや部屋中に響き渡る大音となっている。
臓腑を恐怖と嫌悪で締め上げるようなその音に、しかし蛇川は動じない。
「見せてくれ。あんたの無念を」
言い切ると同時に、蛇川の両手から何かが飛んだ。
球形のそれは、小さな炸裂弾であったらしい。タンクの下にぶち当たると、激しい音を立てて割れた。
その音に誘われるようにして、貯水槽が破裂する。
中から黒々とした水が溢れ出し、ふたりの頬に飛沫を上げながら流れていく。夏見は思わず袂で顔をかばった。
蛇川は飛んでくる飛沫に片目をわずかに瞑ったぎり、その他は一切動かずに前だけを見ていた。
見つめる先に、何か小さな塊がある。
「ああ……」
その正体に気付いた時、夏見の口から悲痛な声が漏れ出した。
その塊は子どもだった。
顔や手足が青黒く浮腫んでいるが、目立った外傷は見られない。ただ、両の手の指先からは、おびただしい血が流れ出ていた。
爪の剥がれたその手が、何かを握りしめている。
夏見に悲嘆の声を上げさせたもの。
それは、半ば白骨化し、残った肉も崩れきった――大人の女の死体であった。