一一:廃墟ホテル
爆発音と共に開いたそこから一陣の風が、怒りに荒れ狂う風が飛び出してくる。
それは放たれた矢のように夏見に向かい、その喉元を貫かんとする。
――が、夏見の身体を捉える前に、それの動きがひどく鈍った。準備していた床の印。それに捕らえられたのだ。
印に捕らわれた風は、あちらに伸びては縮み、こちらに伸びては縮みしながら、なんとか抜け出そうともがいている。しかし触手を伸ばす先々で、拒絶するように火花が散っては、その逃亡を阻止している。
身を捩りながら、怒りと、恐怖がない交ぜになった声で鬼がひと声吼えた。
大きく息をつきながら、夏見がもがく風へ――鬼へと近寄った。
「罪のない人間の魂を弄ぶなんて許せない。お前には冥府へ帰ってもらう」
言うなり、懐から取り出した札を鬼の正面へと押しつける。
辺りへ貼り巡らせた、一朝一夕で書けてしまうような類の術符とは違う、なにか、とても禍々しいもの。
それを押し当てられ、触れた場所からジュウと蒸気が上がった。風を纏った鬼が、振り絞るように悲痛な叫びをあげる。
――甲高いそれは、幼い子どもの泣き声に似ていた。
薄く開いた夏見の口から、驚きと戸惑いの声が漏れる。
札を押しつける手から、わずかに力が抜ける。
その微かな隙を見逃さず、窮地に追いやられた鬼が決死の反撃を試みる。
目を剥く夏見に向かい、おぞましい色の触手が伸びる……
「莫迦ッ、やるなら最後までやり切れッ!」
蛇川が発止と投げた硝子瓶が床で砕け、白梅香の香りが立ち昇る。
呆けた様子の夏見の頬を、投球体勢の蛇川が勢いそのまま張り倒す。
厭わしい香りに悲鳴をあげた鬼は、ずるずると身体を引きずって扉の奥へ退散した。
重い音を立てて扉が閉まり、空間が震えた後には、嘘のような静寂が戻ってきた。
ただ、夏見の荒い呼気と、鬼の這ったドス黒い逃げ道の跡だけが、激しい攻防の名残を思わせる。
砕けた硝子を足で隅へと寄せながら、蛇川がゆるゆると溜息をついた。
そこに責めるような調子を感じ取ったか、頬を赤く腫らした夏見がびくりと肩を震わせる。
「こんな……こんなことッ! 今まで、一度だってなかった……!」
「だろうな。一度でもあったら死んでるだろうよ。だがね、いくら模試で優秀な成績を残していようが、試験当日にうっかり名前を書き忘れでもしたら、そいつは当然不合格だよ」
子どもに教え諭すかのようなその物言いに、夏見は一瞬反論したそうな顔をしたが、ぐっと唇を噛むと押し黙った。
もう一度小さく溜息をつくと、懐から砂の入った瓶を取り出し夏見に差し出す。
瓶と蛇川に訝しむような視線を向ける夏見に、蛇川は顎をしゃくって見せた。
「腕にまぶしたまえ。痕が残るぞ」
夏見の右腕からは薄く蒸気が立ち昇り、その皮膚は赤黒く爛れている。鬼に直接触れられた箇所だ。
そこまでの痛手とは見えなかったが、痕が残ると厄介ではありそうだった。
おとなしく中身を掌にあけ、夏見はそれを腕になすりつけた。じゅ、と嫌な音がして蒸気が強まり、夏見は痛みに顔をしかめた。
「臭い煙が出なくなるまで続けろ。終わったら帰れ」
「帰れませんよ……骨董屋さんは、あの鬼を祓いにいくんでしょう」
答えず、蛇川はスキップするように革靴を鳴らして印を跨ぐ。夏見がどこか悲壮な声で続けた。
「僕も行きます……行かせてください。もう、油断はしません」
半身を捻って振り返ると、夏見の強い視線とかちあった。
その瞳はうっすらと潤んで見えたが、そこに宿る光に弱々しい色はない。
「……油断をするか、しないかはあんたが決められることじゃあない。いくら不覚を取るまいと気を張っていても、そっちにばかり意識を向けていちゃあ、それこそ油断というものだ」
「だ、だけどッ」
追いすがるような夏見の声を、ひたと向けられた掌が制する。まっすぐに立てた四本の指のうち、人差し指だけを残してゆっくりと曲げていく。
「ついてくるなと言っているわけじゃあない。確かに腕はそれなりにあるんだろうが……なんというか、あんたはあまりに危なっかしすぎる。このまま放っておいて暴走されちまうよりかは、側で見張っていたほうがまだマシだ。ただしついてくるなら『油断なく油断するな』と言っている」
「……言ってる意味が、分かりません」
蛇川は夏見を振り仰ぐと、唇をにやりと吊りあげた。
夏見の顔をじっと見てから、わざとらしく視線を下に落とす。
「下の毛が生え揃うころには分かるだろうさ」
「なっ……!」
否定する隙を与えず、蛇川はそのまますたすたと行ってしまう。顔を真っ赤に染め上げて、夏見は金魚のようにぱくぱくと口を動かした。
腕の痛みは、いつの間にか治まっていた。
蛇川は再び、固く閉ざされた扉の前に立つと、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。何かと問うと「チートシート(カンニングペーパー)だ」とだけ短く言う。
覗きこむと、角張った文字が所狭しと並んでいる。
目についた文字を拾うと、どうやらすべてホテル名と、それに付随する歴史らしかった。
「こんなもの、一体どこで……」
「持つべきものは使える駒ということだ。この辺りで廃業したホテルと、その理由を纏めろとだけ伝えたんだが……まあ、短期間でよくもここまで調べ上げたもんだ。おおかた、役所勤めの『友人』とやらを、裏金問題で脅したな」
「それって友人と呼べるのでしょうか……」
「人は己の欲を満たしてくれる者と近付きたがる。すなわち友人関係を築きたがる。それでいくと、彼らは立派な友人だよ……多分に一方通行の友情ではあるがね」
はあ、と夏見は曖昧に言葉を濁した。うっかり「分からない」などと口にしようものなら、またあの下衆極まりない、不快な科白を聞かされるかもしれない。
蛇川はチートシートの一部を睨みつけていたが、やがて元の通りに折り畳むと大事そうにポケットへとしまった。
長い指を、ひたと扉に当てる。
扉は、わずかに震えているようだった。
その震えは怒りにも、怯えにも感じられた。
蛇川は、努めて静かな声で語りかける。
「……下田、悠人」
扉の向こうで、何かが大きく動く気配がした。構わず、蛇川は続ける。
「そこにいるのだろう。そこに縛られているのだろう。……わけを、聞かせちゃあくれないか」
蛇川の声に懇願の響きはない。
かといって、脅迫の響きもなかった。
しばらく、無言の時が続いた。そしてやがて、逡巡するかのような間があったのち、扉がゆっくりと開き始める。
ぎぃ、と音を立てて自ら開く扉に、夏見が思わず息をのんだ。
「すごい……ど、どうして」
「鬼にもまた、事情があるのさ」
言葉少なにそう答え、「前に出るなよ」と忠告してから、蛇川は扉の中へと足を踏み入れた。
注意深く闇の中に目をこらしながら、懐に忍ばせた短剣の重みを確かめるように、蛇川は軽く体を揺すった。




