一〇:廃墟ホテル
吾妻から受け取った巻紙を手に、蛇川はどさりとベッドに倒れこんだ。
ただ思念が作り上げたものとは思えないほど弾力のあるマットレスが、細身の身体を柔らかく受け止める。それが無性に腹立たしくて、蛇川は小さく舌を鳴らした。
合図を受けて再度穴を開けたはいいが、身体が相当に疲弊している。手首あたりの皮がちりちりと焼けるように痛い。
状況としては、これ以上なく悪かった。
さらに、もうひとつ別の理由が蛇川を疲れさせていた。受け取った紙から、嗅ぎ慣れた香りがするのだ。蛇川秘蔵の珈琲豆の香りだった。
「あの野郎……帰ったら覚えておけ」
吾妻ががらん堂にいることは明白だった。
おそらく、『いわた』あたりで蛇川不在の報を聞き、くず子の身を心配したのだろう。
吾妻には、くず子と妙に気が合うらしい知り合いがいる。様子を見にいくついでに、ふたりを遊ばせているのかもしれなかった。
それはいい。
問題は、蛇川の大事な豆を勝手に挽いたこと。それに何より許せないのが、その淹れ方だ。
「布フィルタは、事前に珈琲液(コーヒーかすなどを入れた湯)で煮沸するんだ、莫迦者ッ!」
声に出してわめくと、一層疲れた。
気怠げに持ち上げた腕で、蛇川は額の汗をぐいと拭う。
一方の夏見はといえば、蛇川の隣の部屋へと通されたらしい。
はじめ蛇川に向けられていた甘やかなものとは打って変わって、差し迫った真剣みを帯びた声が、何事かを呟いている。それに合わせてかすかに墨汁の香りもする。
細かなところまでは聞き取れないが、どうやら、マントラを唱えながら術符を書いているらしかった。
それと気付いた蛇川は、わざわざ夏見の部屋の前まで赴いて提言したものだった。
符というのは、一定の修行を積んだ者であれば自作もできる便利なものだ。しかし汎用性には欠ける。一度書き上げてしまえば、相手の出方に応じてその場その場で形を変えることができないからだ。
その典型例ともいえる術符は、対峙する相手をある程度知ったうえで作るのが定石といえた。
だが、がしがしと扉を叩く蛇川に返ってきたのは、枕かなにか、柔らかいものが扉の向こうにぶつけられる音だった。話を聞くつもりなどないということだろう。
カッとなり、お返しにと扉を蹴り上げてから部屋へと戻り、今に至る。
「だから、ガキというものは嫌いだ! 頭でっかちのガキほど傍迷惑なものはない!」
ベッドに仰向けになり、じたばたと空気を蹴りつけていたが、じきに莫迦らしくなってやめた。
胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を落ち着けていく。十ほど深く胸を上下させてやると、ようよう具合が落ち着いてきた。
寝転んだまま、吾妻からの便りを開く。
一枚の紙の中には、四角張った文字が所狭しと並んでいる。見た目に反して几帳面な性格がよく表れた文字だ。
大きな身体を丸めて机に向かい、小さな文字を書き連ねていたのであろう相棒の姿を想像し、蛇川はにやりと唇を歪めた。
と、その時、隣の部屋で扉が開け閉めされる音が聞こえた。しばらくの間があって、やがて小さな足音が遠ざかっていく。
準備を終えた夏見が、仕事とやらに向かうらしかった。
別に取り立てて夏見がどう、というわけではないが、祓い屋を名乗る人種が、蛇川にはどうにも受け入れられない。
奴らは、荒れ狂う炎のようだ。
すべてを打ち壊し、一緒くたにして流し去ってしまう荒波のようだ。
過去に何があったかは知らないが、そのほとんどが鬼を目の敵にし、激しい憎悪を抱いている。
ために、鬼と見ると容赦はせず、祓い、斬り、封じる。その背後に何があるかなどは考えない。
例えば、事象そのものを屋敷に例えるとして、鬼の存在は屋敷の一部の梁に巣食う白蟻のようなものだ。
ならば、その梁の部分だけを切り取るなり、壊すなりして白蟻を駆除してやればいいものを、祓い屋というのは屋敷全体を燃やしてしまう類の人種であった。
もっとやりようはあるものを、鬼の事情など知らぬとばかりに、暴力的な力をもってして圧し潰す。
蛇川は政治的な権力を反吐のように嫌うが、祓い屋のやり方は、どこかそれと似た臭いがする。
知らず、難しい顔を作っていた蛇川は、眉間の皺をいっそう深くしながら、吾妻がまとめた資料に意識を戻した。この中に、このホテルが鬼と化さねばならなかった理由があるはずだ。
何度も読み返し、やがて確信を得ると、折り畳んだ紙をポケットへと突っこむ。
手提げ鞄を引っ掴んで扉を蹴り開けると、肩をいからせながら目的の場所へと急いだ。
◆ ◆
「これはまた……」
廊下の絨毯を引き剥がし、木炭でもって怪しげな文字を書き連ねていた夏見は、呆れと笑いを含んだ声に顔をあげた。
腕を組んだ蛇川が、にやにやと唇の端を歪めている。
「盛大にやっているな。開宴は何時だい?」
「お生憎さま」
はあとため息をつき、夏見は膝を払って立ち上がった。
「鬼憑きは招待していないんです。うっかり近寄ってくると祓われますよ。あなたの大事な鬼さんが」
「ほう。それは見ものだな」
夏見は屹と蛇川を睨みつけると、頭を振って袂に手を突っこんだ。
じゃらりと音を立て、青く澄んだ珠数が取り出される。
ふたりは、例の重厚な扉の前にいる。
己の目的地に夏見もいると気付いた時、正直蛇川は少し驚いた。
まだ、夏見がここを訪れてから時間はそう経っていないはずだ。なのに、その短時間のうちに、どこが核かを正確に見抜いている。けっこうやる、という自己評価は、あながち間違いではないらしい。
ジャッ、ジャッと小気味よく音を鳴らしながら二度、三度と珠数を振ってから、夏見はその一端を首にかけ、もう一端を、まっすぐ天に向かって立てた人差し指と中指にかけた。
丸い目をめいっぱい鋭くすると、扉を睨み据え、印を結び始める。
低くマントラを唱えながら、扎、扎と右腕を動かす。
上、左、右、下へと振って、結んだ印を振り切るようにしてまた頂点へ。
なかなか、堂に入った構えである。ほう、とふたたび呟いた声には、少なからず感心の響きがあった。
「驚いた。本当にやるものだな……その様子だと、学んだのは高野山のあたりか」
思わず蛇川が呟くと、夏見は振り上げていた腕をだらりと下げ、深い息を吐いた。その額は汗で濡れている。
「ご明察ですが……邪魔をするなら、お引き取り願います」
「すまん。茶化すつもりではなかった」
掌を見せ、おとなしく一歩引き下がる蛇川に、夏見は胡乱者を見る目で見た……が、何も言わない。
再び扎、扎と夏見が腕を振るうと、呼応するように扉がガタガタと震えた。
廊下の壁同様、たくさんの術符が貼られた扉は、夏見のマントラから逃れようとするように身を捩る。
夏見の息が上がり、顔が赤らみ、振るう腕から汗が飛び散るころ、扉の揺れはホテル全体へと伝わっていた。
電燈の硝子は割れ、壁面には無数のヒビが走り、天井からは埃とも木屑ともつかないものが降ってくる。
我慢できぬように揺れる壁に身を預け、蛇川は夏見の顔を窺い見た。
明滅する電燈に照らし出される夏見の顔には、獰猛な笑みが浮かんでいた。まるで、獲物を前にした捕食者のごとき醜悪な笑み。蛇川の背筋を、ぞくりとした何かが走る。
――やはり、相入れんな。
今度は夏見の邪魔をせぬよう、心のうちでひそりと呟く。
――これでは……どちらが鬼か、知れたもんじゃない。
何が、この少年をここまでさせるのだろうか。
そんな、余計なことに気を回らせたからに違いない。
扉がひときわ大きくぶるりと震えた際、蛇川の反応が一寸遅れた。
「来るぞッ、夏見くん!」
蛇川の叫び声に、夏見はようやく我に返ったらしかった。
びくりと肩を震わせると、床に書いた印の後ろまで飛びすさる。
瞬間遅れて、観音開きの扉が弾けるように開け放たれた。




