九:廃墟ホテル
「そう毛嫌いしないでくださいよ。同業同士、仲良くしましょう」
肩をいからせて歩く蛇川のあとを、夏見の甘ったるい声が追いかけてくる。
夏見は己を「祓い屋」と紹介した。
祓い屋……読んで字の如く、物の怪の類を祓う者。
無論、世に広く認知されている職業ではなかったが、蛇川が身を置いている世界の特性上、過去に何度か、それを名乗る者と行き合ったことがある。
敵として向かい合うことはなかったが、出来ることなら関わり合いになりたくない。そういう人種と認識している。
すげない態度にもまるで怯まず、雛が親鳥を追いかけるように後をついてくる少年に、蛇川は苛立ちも隠さず言い放った。
「ついてくるな。業務妨害罪で訴えるぞ」
「ギョームボーガイザイ? 初めて聞いたな。どこの流派の呪文です?」
「……要するに、僕の仕事を邪魔するなと言っている。生憎、無学無教養な愚か者に付き合っていられるほど、僕は暇じゃあない」
「わあ、これからお仕事ですか? 僕、他の流派の祓い屋さんの仕事ぶりって見たことないんですよね。楽しみだなあ」
この状況下にあっても終始落ち着き払い、何より、運ばれてきた料理に一切手をつけない蛇川を見て、夏見はすっかり蛇川も『心得のある者』と思いこんでいる。
確かに心得は多分にあるが、祓い屋などという奇怪な肩書きを掲げた覚えはまるでない。
己はあくまで骨董屋亭主。それが蛇川の立ち位置だ。
ただ、人の手でいくら捏ね繰り回してもどうにもならなかった問題は、骨董屋・がらん堂に行けば解決する――そういう笑い話にも似た噂を聞きつけた依頼人が、日々妙な話を持ちこんでくるだけだ。
しつこい夏見に辟易した蛇川は、足を止め、身体全体でぐるりと振り返った。
「夏見くん、といったか。……いいことを教えてやろう。僕は無駄が嫌いだ」
ぴっと人差し指を立てる蛇川に、夏見はにこにこと頷いて見せる。
「無駄なことを無駄とも思わず無駄な時間を費やしている連中の気が知れんし、ぞっとする。そしてもうひとつ」
立てていた人差し指を、今度はそのまま夏見に向ける。
夏見は口元に笑みを浮かべたまま、大きなどんぐり眼をきょろりとさせた。
「己の立場をわきまえない、莫迦で五月蝿いガキが嫌いだ。他人の迷惑を顧みず、己の責務は果たそうともせずに、ただ幼稚な我を主張し続けるガキが大嫌いだ」
眉間に険悪な皺を浮かべて早口にまくしたてる蛇川に、しかし夏見は怯まなかった。
「だとすると、骨董屋さん。お言葉を返すようですが、そのお説教こそが無駄というものですよ。僕は自分の責務を果たすべくここにいるわけですし」
「僕が被っている多大な迷惑と精神的疲労についてはどうなる」
「うわッ、酷いなあ。これでも僕、けっこうやるんですよ。お役に立てると思うんだけどな」
蛇川が再び口を開こうとしたその時、どこからかコツコツと小さく音が聞こえた。
さやかな音は、しかし夏見の耳にも届いたようで、不思議そうに辺りを見回す。
「今の音は?」
「帝都からの合図だ」
え、と声を漏らす夏見をよそに、蛇川は廊下に膝をつくと手早く手提げ鞄を開けた。中からひと巻きの紙を取り出す。何も書かれていない、見た目にはごくごく普通の紙だ。淀みなく準備を進める蛇川の動きにつられ、仄かに漂う白梅香の薫り。
それを脇に置くと、口元へやった革手袋を噛み、一気に両手を引き抜いた。
露わになった無数の目玉が、ぎょろぎょろと右を左を伺い見る。
夏見がはっと息を漏らす音が聞こえたが、構わず、蛇は目の前の空間に指をかけた。
両の指の背を合わせ、捩じこむように少しずつ、空間へと手を突っこんでいく。
ただ無色透明な空気が在っただけのそこが、蛇川の指に押され、歪み、変形していく。
閉じた襖を左右に引き開けるように、蛇川が両腕に力をこめる。小刻みにぶるぶると震える腕が、そこにかかった負荷の強さを表している。
絶句する夏見の前で、空間に拳ひとつ大の穴が空いた。すかさず、脇に置いてあった紙をそこへ突っこむ。
丸めた紙が通り抜けるのを待って穴が閉じ、何もない空間が戻ってきた。
ただ蛇川の手にしていた紙だけが、穴を通り、いずこかへ消えてしまっている。ただ白梅香の薫りだけが、行く宛を見失ったかのようにぼんやりと漂っていた。
「ッ、は……」
それを見届けた蛇川の全身から力が抜ける。
崩れ落ちるように廊下へ座り込んだその額に、瞬く間に大粒の汗が浮かび上がる。荒い息をつきながら、拾った革手袋を手早くはめる。
ひと仕事を終え、壁に背を凭せかけた蛇川を、青い顔の夏見が見下ろしていた。
笑みを絶やさなかったその顔が、憎悪で、怒りで塗り潰されている。
「あなた……あなたは、『鬼憑き』じゃないか……!」
肩で息をする蛇川は、夏見をじっと見返した。
呼吸が落ち着くのを待ち、静かに口を開く。
「完全に憑かれているわけじゃあない……手首より先は喰われないよう、封をしてある」
「そんなことは問題じゃないッ!」
蜂蜜色の髪を荒々しく乱しながら、夏見がどんッと床を踏み鳴らした。
「鬼は……鬼は人を不幸にしかしない。我々とは相容れない存在ですよ!? このホテルが、鬼が、憐れな初老男性にどんな仕打ちをしているか、あなただってご存知でしょう! なのにあなたはそれを、自分の欲のために使っている!」
その剣幕に、蛇川が思わず眉を顰める。
夏見はしばらく荒い息を吐いていたが、やがてゆるゆると頭を振った。
「……せっかく同業者に巡り会えたと思ったのに……失望しました。あろうことか、鬼に魂を売った人だったなんて……」
怒りに声を震わせながら、夏見が足早に去っていく。
足音も荒く角を曲がっていくその背中を見送って、蛇川はひとつため息をついた。
「ガキってえのは……」
壁についた蛇川の背中が、ずるずると力無く落ちていく。
「人の話を、聞かんもんだ」
毛足の長いカーペットの上に座り込み、蛇川は重い吐息をついた。まるで昏い洞穴を吹き抜ける陰鬱な風のようなその音が、ひとり残された廊下にぽつりと響く。
封が弱まっているためか、少し鬼の力を開放しただけでこの有り様だった。
きっと今頃、送ってやった紙に吾妻が情報を書きこんでいることだろう。
鬼に対抗する術をもたない吾妻に、鬼が直接触れたものを渡すのは気が進まなかったが、今は非常時だ。気休めにしかならないかもしれないが、鬼が嫌う白梅香も焚き染めた。いずれにしても、彼の協力を仰がなければ、後にも先にも進めない。
かき集めた情報を書き終えたら、再び吾妻から合図がくる。
それまでに、少しでも身体を休めておく必要があった。




