前編
───私、あの人を……大切な人を、ひとりにして来てしまいました。
幼い頃から、十までしか生きられないと言われていた私が十二まで生きられたのは、あの人のおかげなんです。
なのに、私はあの人にお礼も言っていない。
言いたいことはたくさんあるし、したいことも勿論あった。
もう少し…せめて、あの人が成人するまでは一緒にいたかった。
それはもう、叶わない願いだと分かっています。
だから、せめて──…
───ねぇ、神様。
神様が、もし、本当にいらっしゃるのでしたら……
か「うわぁあっ!! 逃げろ、幽鬼が……ッ」
「っ!? あ、あなた…! ──琴美、弟を連れて逃げなさい!」
「え、でも、お母さん…」
「きゃあぁあ──…、……」
「私たちは大丈夫だから、早く……!」
───………
「逃げたって、何も変わらないのになァ」
つまらないと呟く者の右手には、血濡れた女の頭部だけが、髪から垂れ下がっていた。
その者の容姿はおろか背丈や身なりも暗闇のせいではっきりとは解らず、辛うじて声の高低から男性であると解るのみ。
辺りは、村の中心部だというのにしんと静まりかえっていて、不気味なほど物音一つしない。
その唯一の例外──これを成した張本人である彼は、ぴちゃりと地面を跳ね上げて、ゆっくりと歩いた。
まるで、生き残りを探すように。
「№56と連絡が取れません!」
№56とは、この組織に登録しているチームのうちの一つだ。五人編成で、皆そこそこの手練れである。
依頼成功回数もそこそこ多かったから、もうすぐでBランクに上がれるだろうともっぱら噂されているチームなのだが。
今、この組織の上層部では、情報が錯綜していた。
──もたらされる情報は、真偽不明のものばかり。
「二つ山を越えた隣村が一夜にして滅んだらしい」
「夜明るいと思って峠の方を見てみたら、あちこち至る所に火の手が上がっていた」
「他の村に嫁いでいった娘と、連絡が取れない。同じ土地にいる知人とも一切通じないから、何かあったのでは」
「山に行った息子と父が戻ってこない。足を滑らせたのかもしれない」
別に、これらの通報が寄せられるのは全然おかしくない。遭難は特に、春先にはよくある事だ。
だが、量がおかしかった。
ここがいくらそういう仕事を請け負う所だとはいえ、この数は──一夜にして、集中的にある地域から数万件の調査依頼が寄せられるというのは──おかしい。
これらの情報の元は、ここから二百キロ離れている山間地域周辺である。
その山間地域というのが、今回「滅んだ」と言われている村なのだが──
先ほどの情報は全て──この他にも、とても処理しきれないほどの様々な情報があるのだが──その村が関連していた。
夜明けと共に、そこらじゅうで鳴り響く固定電話のベル音。
話を聞いていくと、その情報のほとんどすべてが「昨日の夜」に起こっていた事がわかった。
不審に思った職員が、発生した地域に関する情報を訊ねてみたところ、そのうちの殆どが「ある一つの村」に関わりがあることが判明したのだった。
そこは、全国に数多くある山奥にある村のうちの一つで、周辺の村からは「桟把村」と呼ばれているそうだ。
ともかくも現地の様子が分からないと対処のしようがないということで、そこそこ腕の立つ№56というチームを調査に遣ったのだが……
遣わせてから三時間後。
携帯電話やGPSを含む、およそ全ての通信機器の電波が一切途絶えた。
いくら奥深い山間部であっても、その点における便利性は都市部と同じくらいだから、電波が悪くて連絡がつかないとは考えにくい。GPSにいたっては、地上は全くの無関係だから、余計関係のない話である。
何が起こったのか。
否、何が起こっている《・・・・・・》のか。
得体の知れない事態に、上層部では更なる混乱が巻き起こったのだった。
◇◆◆◆
──あなた達だけでも逃げて──
「お母さん……っ」
あなた達だけでも逃げて。
そう私達をきつく諭して手を離したお母さんは、一晩待っても二晩待っても来てくれなかった。
何で? 追いつくからって言ったのに。
「寒いよぅ…」
腕に抱いている弟の泣き声は二人で茂みに隠れてからにしだいに聞こえなくなり、大分前に雨が降り始めてからは、雨の音しか聞こえてこない。
「おとぉさんっ…」
お母さんと三人で逃げる際、身を徹して私達を護ってくれた。私達が逃げるための時間を稼いでくれた。
お母さんに腕を捕まれて走って逃げる後ろで聞こえたお父さんの声と音は、今でも耳にこびりついている。
「ぅ…うわぁあんっ」
会いたい。
二人に会いたいよ。
わんわんと大声を上げて泣いていたからだろうか。雨音にかき消されていたからだろうか。
その、足音が聞こえなかったのは。
「ウオンッ」
「………。え?」
死角となる方向から茂みをかき分けてこちらに寄ってきたのは、黒い靄で創られた、魔物と呼ばれるものだった。
魔物は、動物とは違い実体がない。だから殺すことが出来ないので、見つかったら最期襲われて喰われるしかないと言われている。
魔物は人がいない所に住んでいるから、よほど迷い込まない限りは遭わないと言われているのだが。
走っている間に、魔物の領域に入ってしまったのだろうか。
彼等は靄故に人を食用として襲うことはないけれど、己の領域に入った者には容赦しない。
侵犯をした人間を見せしめのために殺して喰うのだと言われているが、目撃して生還した者はいないため、実のところはあまり解っていなかった。
現実思想の学者達からは、存在自体が虚偽であるとすら言われているほどだが。
「っひ……」
大きな黒い魔物は、うずくまる女の子の背中から前へと、匂いを嗅ぐように移動する。
やがて、懐に抱えている弟のところへ鼻先を近付けた。
「やっ…!」
弟を喰われてはならぬと、青ざめつつも気丈に振る舞う。
ぎゅっと弟を掻き抱いた女の子を、じっと見下ろす魔物。
「………くー?」
やがて首を傾げた魔物に、女の子は堅く閉じていた瞳を恐る恐る開けた。
「…ぁ、なに?」
震える女の子にパタリと尾を振った魔物は、やがて立ち上がった。少し離れてから女の子を見、またパタパタと尾を振る。
それを幾度か繰り返したが、女の子は立ち上がる気配すらない。魔物は不思議そうに瞬きをしたが、そこから動く気はないようだった。
「……そっちにいけばいいの?」
女の子の問いかけに、肯くように微かに首を振る魔物。
それを信じて、恐る恐る立ち上がろうとした女の子だが、何故か立ち上がれない。
すると魔物が近寄ってきて、女の子の着物をくわえた。
「っきゃ!」
弟を離さぬようにと身体を丸め、悲鳴を上げる女の子を後目に、魔物は駆ける。
──目的地は魔物にしか分からない。