プロローグ
『お前だ』
真後ろから声が聞こえた。
重い声は真後ろ、しかも耳元からだった。
その声で目を覚ました。
あまりにも圧倒的な、根源的な恐怖を呼び起こす声。
当然そんな声の主がいるはずもなく、ここは本来目を覚ますべき自分の部屋のベッドだし、本来目を覚ますべき時間の十五分前である事も、目覚まし時計で確認する。
無事は確認出来たのに、心臓の動悸は激しく、呼吸も荒い。
まるで長時間全速力で走り続けた様な気分だ。
嫌な夢を見た気もするが、夢は夢。別に夢判断に詳しい訳でも無いし、さほど興味も無い。
今日もまた、無意味な一日が始まる。
高校で無意味な授業を受け、一部の生徒だけを持ち上げる部活を強要する、徹底的な贔屓社会こそが学校と言う閉鎖空間である。
それでも、仕方が無いとも思う。
彼は特別な運動神経を持っている訳でもなく、テストの点も極めて優秀とは程遠く、凄く見た目が良い訳でもない。
言ってみればごく普通。
身長も平均的だし、体重は平均より少し下。髪型も特筆するべき点もなく、そろそろ伸びてきたので切ろうかと思っている。
あえて他者より優れたところを探そうとするなら、視力はかなり良い方だ。
そんな彼が今すぐいなくなっても、悲しむのは両親と姉とその身近な人達くらい。
一度深呼吸すると、まだ鳴っていない目覚まし時計に消音のロックを掛け、自分の部屋を出てリビングへ行く。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通り、朝食の準備をしている母に挨拶する。
姉は昼過ぎくらいまで寝ているので、学校から帰ってきてからしか会えない。
いつも通りの朝食を摂り、いつも通り家を出る。
彼が好んでプレイしているゲームや、好んで読んでいるラノベなどであれば、ここで気さくに声をかけてくるような美少女の幼馴染でも出てきそうなモノだが、日本中でそんな朝を迎えているのは確実にマイノリティーだ。
圧倒的大多数が登校の際にそんな事はなく、その中でも一人で登校する高校生と言うのもさほど珍しくも無いだろう。
別にイジメられている訳でもなく、意図的に無視されている訳でも、無視している訳でもない。
ただ、面倒なだけだ。
教室内に入れば、最低限のコミュニケーションは取る。
協力プレイの時には、やはり身近で顔の見えるメンバーの方が効率的にも悪くないし、何より面と向かって悪意をぶつけられる人間は、そう多くない。
少なくとも、彼の周囲の人間はそうである事が多かった。
モニター越しにはどんな罵詈雑言を吐いているか、どれほど身勝手なワガママプレイを繰り広げているかは知らないが、顔を合わせての協力プレイの間はチームワークを意識した行動を取る。
彼もそうだ。
と言っても、彼は基本的には傍観者である。
ツイッターやブログや掲示板を覗きはするが、こちらから書き込んで煽ろうとは思わない。
ネットゲームもやっているが、サポートをメインに行い、フロントラインで華やかな戦果を上げるエースを支えるのが、彼のスタイルでもあった。
それであれば揉める事も少なく、下手に目立たない方が悪意にさらされる事も少ない。
目立たず、紛れ込む事。
それが空気の様な存在を目指す彼、出流木翔英が十七年の人生経験で得た処世術でもある。
退屈極まる授業も終わり、その日の放課後。
運動部は毎日毎日活動しているが、翔英は所属している弁論部は部が存在しているだけで、どれくらいの生徒が在籍しているかもどんな活動をしているかも、翔英は知らない。
在校生は必ず何かの部活に所属していなければならないと言う面倒な校則があるので、翔英の他数名がそんな弁論部に所属している事になっている。
この学校にはこんな部活が他にもいくつかあるようだ。
と言うより、多数の生徒が所属する花形部活がいくつかあり、多数の存在自体が不明な部活があると言う方が正しいかも知れないが、それも別にどうでも良い。
翔英は学校にいる間は親しくしている人物が数名いるが、彼らは大会が近いと言う暑苦しい理由で部活に引っ張られていった。
それが将来どういう役に立つかは知らないが、熱中出来る事があるのは良い事だ。
理解は出来なくはないが、翔英としては遠慮したい。
先輩後輩の上下関係は見ていて気持ち悪いところもあるし、運動部に入って活躍できるほどの運動神経が自分に無い事は十分承知している。
全ての運動部が例外なく、と言うつもりはないが、運動神経のあるなしは絶対の価値基準であり、翔英の様に持たざる者が入ってしまったら、それこそこき使われるだけで良い事など何も無い。
翔英の親しい人物の内一人はかなり期待された人物なので、そこには頑張って欲しいと素直に思っている。
そう言うわけで、翔英は一人で下校していた。
もちろん、人通りが皆無と言う訳ではない。
地元は特別田舎と言うほどではないが、都心とは言えないので、平日から人がごった返していると言う事も無い。
なので、その事故の目撃者は多くない上に、証言内容も曖昧なモノが多かった。
当事者である翔英ですら、何が起きたのかを正確に説明する事は難しい。
一言で言えば、空から剣が降ってきたのだ。
交差点で信号待ちしている時、特に理由も無く空を見上げた時、一瞬ソレが見えた気がした。
次の瞬間、その剣は翔英の頭を貫いていた。
少なくとも、翔英はそう思っていた。