由奈のやや非凡な日常
由奈は汚部屋体質である。いつも必死に片付けているが、ちょっと気を抜いたり、忙しい日が続くと部屋中が散らかってしまう。
しょっちゅう遊びに来る凪子は、汚部屋住人ではないが、由奈の部屋の惨状を気にしない。だからこそ気楽につきあえるのだが、彼女が来ても片付けは進まない。
その日も、凪子が遊びに来た。いつものごとくご飯を食べておしゃべりをして、深夜近くに帰って行った。そして、由奈はまたしても、玄関の鍵をかけ忘れて寝てしまった。
このところ残業が続いて、小さな寝室を服塚にしてしまった由奈は、茶の間に布団を持ち込んでいた。明け方に、それは起こった。
がたがたと音がする。由奈は、新聞配達だと思っていた。それにしては、音が長い。まだ寝ていられる時間なのに、うるさいな。起きて苦情を言おうと思った頃、音がやんだ。由奈はまた眠りだした。
しばらくして、今度はミシミシ、がさがさと音がし出した。
ネズミでもいるのか?
由奈の住むアパートは古い。ネズミが出てもおかしくはない。食料を荒らされたら嫌だと思い、由奈は渋々起き上がった。
そこにネズミはいなかった。いたのは見知らぬ人だった。
モッズコート、サングラス、帽子。
誰だっけ、この人?
由奈は思い出そうとした。
《見知らぬ人》は、泥棒だった。当然由奈が思い出せるはずもない。
姿を見られて、泥棒は慌てた。
そもそも入った時から、嫌な予感はしていたのだ。ひどく荒れた部屋。奥に部屋があるのに、入ってすぐの小さな茶の間で寝ている女。奥で寝ていれば、茶の間をゆっくり探せたものを。
騒がれることを恐れて、泥棒は黒革の手袋をした手で、由奈の口を押さえた。
「騒ぐんじゃない」と小さく、しかし鋭く言った。当然脅す口調だった。
一方、由奈は寝ぼけていた。なので、恐怖感はなかった。代わりに、口を押さえる革手袋の匂いに不快感を覚えた。それにここは、自分の住まいだ。他人に拘束されるいわれはない。何を言ってるのか聞き取れなかったが、脅すような物言いも気に入らなかった。
由奈は、男の手を振り払った。そして、言った。
「人違いじゃないですか?」
そして、ポカンとしてる男を放置して寝直した。
泥棒は混乱していた。
なんなんだ?なんなんだこの女は?なんなんだこの部屋は?
自分は泥棒で、この部屋に忍び込んだのだ。別にこの女を迎えに来たわけでも、この部屋が荒れていると知っていたわけでもない。
なぜこの女は、明らかに見知らぬ男を追い払いもせずに寝直せるんだ?
人違いってどういうことだ?自分は誰かを呼んだりしたか?いや、ただ「騒ぐんじゃない」と言っただけだ。
『騒ぐんじゃない』『人違いじゃないですか?』
それは会話か?
そこに意思の疎通はあるのか?
泥棒に押さえ込まれて、それを振り払ったら、普通は悲鳴を上げるものではないか?
そもそもこんなに荒れた部屋でなければ、音もほとんど立てずに済んだし、女は奥の部屋に寝ていたはずだから、目を覚ますこともなかった。この部屋は何かの罠なのか?
とりあえず今、女は眠っている。
逃げるなら今だ。
泥棒はそっと玄関へ向かった…はずだった。だが、玄関に出る引き戸の手前に、住人の通勤バッグがあった。中身をあさって、そこに放り投げたのだ。
普段なら、退路にものを置いてふさぐようなまねはしない。だが、ここは汚部屋だった。そこかしこに物があると、どこに何を置いてもかまわない、という錯覚が生まれる。
泥棒は自分の仕掛けた罠に自分ではまった。バッグに足を取られ、ガラスのはまった引き戸にぶつかる。ガラスがけたたましい音を上げ、女がまた目を覚ました。
自分の手をふりほどいた女が、自分の言いたいことだけを言って寝直したときの、あの不気味さが脳裏に蘇った。
泥棒は一目散に逃げ出した。足音があたりに響き渡るのもかまわず、鉄骨階段を駆け下りる。一刻も早く、この混乱が新しい混乱を生み出すような場所から離れたかった。
ガラスの音で目を覚ました由奈は、鉄骨階段を揺るがすような足音で、徐々に意識がのピントがあってきた。
今、部屋に知らない人がいた?由奈は自問した。うん、いた。階段を降りる足音がする。
金属の響きの足音がやんだ。降りきったのだろう。
跳ね起きた。
扉を開け、階段の手すりから身を乗り出す。男はアパート前の道を西方向に逃走していた。
由奈は、男を追いかけたりしなかった。追いつけるとは思えなかったし、寝間着のままで外にいたくない。
部屋に戻ると、まず時計を確認した。5時30分。
部屋を見渡した。ほとんど荒らされていないというか、荒らされたのか自分で荒らしたのか区別がつかなかった。
男は、茶の間をうろついていた。通帳と印鑑は、奥の部屋にばらばらに保管してある。そこへたどり着けたとも考えられない。
改めて由奈は時計を眺めた。
やることは一つだけ。
由奈は警察に連絡もせず、布団をかぶって、寝直した。
会社には、遅刻した。
それに由奈が気づいたのは、昼食時だった。同僚と食事に行こうと財布を確かめると、そこから札だけが抜けていた。
被害総額8,000円。それと、汚部屋を警察の人に見せる恥ずかしさを秤にかけた。
終業後、由奈は警察へ電話した。
「いやあ、ひどく荒らされたねぇ」刑事の言葉に、由奈は曖昧な苦笑いを見せた。
そう言った刑事も、茶の間に布団がある時点で、全部泥棒がやったとは思っていまい。
犯人の物と区別するため、自分の指紋を採られる。指に薬を塗って、白い紙に指先をぐると転がす。薬は黒くなかったが、紙には黒く指紋が浮き上がった。
玄関では、おそらく鑑識の人が、ドラマでやっているような粉をはたいてドアの指紋を浮き上がらせていた。
「革手袋はいてたから、指紋は出ないと思います。」口を押さえられたときのことを思い出して、由奈は言った。
「冷静だね。そんなこと気づいたの」
数人の刑事が来たが、誰一人、ドラマのようなスーツ姿ではなかった。作業ジャンパーとスラックスとか、Tシャツにジーンズとか。ドラマのような二枚目刑事もいなかった。ああ、これが現実だなぁ、そう由奈は思った。
その後、警察から連絡はない。
犯人は今日も元気に泥棒を続けているのだろう。
でなければ、犯人はあの部屋に入ったことを必死でわすれたのか。
どうせお金が戻ってこないなら、あの部屋の状態は忘れられた方が良いのかもしれない、由奈はふと、そんな風に思うのだった。
実話度が高いとか、恥ずかしすぎてわざわざ言っちゃいます。
鍵はピッキングかも知れませんが、かけ忘れと言うことで。
チェーンキーは、外から手を入れて外せるくらい長い鎖でした。存在意味なし。
ところで、8,000円取られた被害者の指紋って、警察では何年保存するんでしょう?