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カフェを出て、もと来た道をふらふらと歩いた。やけに頭がぼんやりしていた。店の独特な空気に酔って、妙な白昼夢をみたせいだ、と私は思った。
黙々と歩き続け、梅田駅まで戻っては来たが、この後の予定が思い浮かばない。夕食にはまだ少し早く、かといってホテルに戻る気にもなれなかった。
しばらく梅田駅周辺をうろついているうちに、ふと、見覚えのある道に出た。
私はこの道を知っている。大阪に来たのは2度目、ひとりで市内を歩くのは初めてだ。その私がこの道を知っている。それはこの道を、恭太郎と一緒に歩いたことがあるからだ。
この道の先にある恭太郎の部屋へ、並んで帰ったことがあるからだ。
○
かつて大阪の恭太郎を訪ねた3日間、私は彼の部屋に泊めてもらった。社宅だというマンションは、ここが本当に社会人1年目の青年が住む部屋なのかと突っ込みたくなるほど立派な高層マンションだった。
清潔感があって、几帳面そうな恭太郎のイメージに反し、彼の部屋は雑然としていて、お世辞にも片付いているとは言えなかったけれど、そんな一面すらも当時の私には愛おしく思われた。恋は盲目とはよく言ったものである。
(掃除でもしてあげたほうが良いのかな……。でもそんな出しゃばったことして鬱陶しい女だと思われたら嫌だしな……)
そんなことを考えあぐねて結局なにもせずに帰ってきたくらいなので、恭太郎からしてみれば、ほとほと招き甲斐の無い女だったかも知れない。
しかし、あのとき以上に幸福な記憶を、私は未だ持たない。
好きな人と1日を過ごし、好きな人の部屋に帰り、好きな人の隣で眠る。それが叶ったときの喜びは、私も経験で解っている。
ただ、その相手が恭太郎であったことに、私の心がどれほど満たされたか知れない。それまで出会ってきたどんな相手より、恭太郎は特別だったのである。
○
見覚えのあるその道を、ふらふらと歩いた。やけに頭がぼんやりしていた。それでいて、妙に冷静だった。私を無視して、足が自分の意志を持ったように、すいすいと前へ出た。進めば進むほど、記憶が鮮明に蘇ってくるようだった。迷子になることも、もう出来そうになかった。
(こういうのって……ストーカー行為になるのかな……)
そんなことはない、と言い切れる根拠は、今の自分には無い。
(やっぱりストーカーかな……そりゃそうか……彼女でも、今や友達ですらないんだから)
何の関係性も持たないぶん、むしろストーカーよりもたちが悪い気もする。すれ違う歩行者が、犯罪者を見るような目つきを向けている気がした。マンションが近付くにつれ、頭の中で自分を止める声がし始めた。
(もうやめよう……引き返そう……)
そう思うのに、どうしても足を止めることが出来なかった。私は歩き続けた。
○
恭太郎の部屋に入ったのはついにその一度きりである。
大阪から戻って間もなく、恭太郎とは連絡がつかなくなった。メールの返信が徐々に来なくなり、電話をかけても留守電が続いた。
物理的に距離が離れている状態で、連絡もつかない。このままでは恭太郎との縁が切れてしまう。そう思った私は一方的にメールを送り、着信を残し続けた。そんなことをしたってどうしようもないことくらい、どこかで解っていただろうに、他にすべきことを考えられなかった。それほどまでに混乱し、おかしくなっていたのである。
そのうち、恭太郎から1通のメールが届いた。
『彼女が出来たからもう会えない。ごめん』
頭が真っ白になるとは、まさにあの瞬間のことだろう。たった1行のメールなのに、その内容を理解するまでにしばらく時間がかかった。
ようやくそこに書かれていることの意味を飲み込んだとき、今度は目の前が真っ暗になった。
彼女が出来たことなど、どうでも良かった。謝って欲しくも無かった。ただ、恭太郎から『もう会えない』と言われたことが何よりも辛く、悲しかった。
今にして思うなら、私は恭太郎の恋人でも何でも無かったのだから、連絡を取ろうが取るまいが恭太郎に非は無いのである。私には必死になって恭太郎に追い縋る権利も無かったのである。
そう割り切るのは少し卑屈すぎるだろうか。しかしそうとでも思わなければ、恭太郎に拒まれた現実を受け入れることは難しかった。
○
近所の飲食店も、買い物をしたコンビニも、2年前と変わらずそこにあった。恭太郎の住む高層マンションも、相変わらず立派な佇まいでそこに建っていた。
頑丈そうなオートロックの扉は、いくら近付いたところでピクリとも動かない。部屋番号は覚えていないが、部屋から見えた景色はよく覚えている。その記憶から部屋の位置に当たりをつけた。
少し離れたところからマンションを見上げてみたが、その部屋の明かりは消えている。ああ、居ないのか、と思った。それと同時に、私はもはや取り返しの付かない、とんでもないことをしてしまったような気がして、自分で自分が恐ろしくなった。
恭太郎の部屋番号を覚えて居なかったことに、少しだけホッとした。
○
恭太郎から最後のメールを受信して、1年ほど経った頃だろうか。恭太郎のことは一向に忘れられぬまま、淡々と働き、時折バーに足を運ぶ、変わり映えのない日々を送っていた私に、ひとつの出会いがあった。
ある宴席で偶然に知り合った彼は、恭太郎が学生時代にバイトをしていた飲食店の元後輩だと言った。
世界は時折、残酷なまでに狭いものなのである。
共通の知人だと分かると、話題は自然と恭太郎のことになった。
「松木さんは王子様みたいな人でした」
そう言った彼は、浅黒い肌に逞しい身体つきをした、恭太郎とは違ったタイプの男前である。恭太郎を王子様に例えるなら、彼は騎士といったところだろうか。
「あのルックスで仕事も出来ましたからね。まぁ人気者でしたよ」
バイト仲間のうちでも、恭太郎と特に親しかったというこの騎士から、私は王子様の真実を聞くことになる。
○
今は昔ある街に、恭太郎という王子様が居ました。
王子様には長く交際しているお姫様が居ました。
騎士たちから見ても仲睦まじく、お似合いのふたりでしたが、王子様は密かに悩んでいました。
「僕は本当に彼女のことが好きなのだろうか」
そんなとき、王子様は別のお姫様から告白を受けました。
「あなたが好きです、王子様。私とお付き合いしてください」
王子様は思いました。彼女と付き合ってみれば、自分が本当に好きな人は誰なのか、判るかも知れないと。
それを確かめるように、お姫様と付き合い始めた王子様でしたが、その事実は、元より交際していたお姫様にも、間もなく知れてしまいました。彼女も伊達に長い間、王子様の傍に居たわけではなかったのです。
かくして、王子様を巡る戦いの火蓋が切って落とされました。
ふたりのお姫様の想いは止まらず、戦いは平行線の一途を辿り、下せぬ決断に悩む日々は、次第に王子様を追い詰めていきました。
そんなとき呑みに出掛けた街の酒場で、王子様はひとりの娘に出会いました。
カウンターで酒を煽る、自分と変わらぬ歳格好の娘に興味を持った王子様は彼女に声をかけました。
ふたりが親しくなるのに、時間はかかりませんでした……。
○
「松木さんは確かに格好良かったけど、女相手にはちょっとズルい人なんです。結局、誰ともケリをつけずに大阪に行っちゃいましたし」
私はふっと息を吐いた。彼の話はショックな内容だった気もしたし、なんとなく知っている話だったような気もした。とにかく、私は冷静だったと思う。
「なんていうか……あなたは松木さんの癒しだったんじゃないかな」
そう言って、彼は私の顔を気遣うように覗きこんだ。
「大丈夫?」
「大丈夫」
……翌朝、騎士の腕のなかで目覚めた娘は、王子様のことを想って、少しだけ泣きました。
それから、お姫様になれない我が身を思って、もう少しだけ泣きました。
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私は今でも恭太郎のことが好きである。だから恭太郎の嫌がることや、恐がらせるようなことはしたくない。
故に私は恭太郎に会おうとしていたわけではない。彼に対して何をしたかったわけでもない。現にマンションに近付いただけで、来た道を引き返している。
(じゃあどうして、こんなところまで来たんだろう?)
黙々と歩きながら、自問してみたけれど、答えが解ることはなかった。