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 分厚いトーストをひとくち齧ると、サクッと心地よい食感に続いて、芳ばしい香りが鼻を抜けていく。その感覚にうっとりしつつ、今度はゆで卵に齧り付いた。もったりとやさしい卵の味を、ちょっぴり振り掛けた塩が引き立てている。美味い。私は満足感から、ほぅっと息を吐いた。


 我ながら夜通し呑んでいたとは思えないほどスッキリと目覚めた私は、てきぱきと身支度を済ませ、チェックアウトの30分前にはホテルを出ることが出来た。素泊まりだったので、ひとまず朝食を取りたいと思い、宗右衛門町通りから心斎橋筋商店街へぶらぶらと進んで行くと、トーストとゆで卵を載せた皿の写真と共に『モーニングセット』と書かれた看板が目に付いた。看板の奥で、ビルとビルの隙間に隠れるように建っていたその店の、アンティーク調の椅子に深く腰掛け、私は今、非常に優雅な気持ちでブレックファストをいただいている。

 トーストとゆで卵を食べ終えると、最後に珈琲をゆっくりと、味わうように飲んだ。普段はインスタント珈琲と職人による焙煎珈琲の違いも判らないような私だが、今朝なら判る気がした。無論、判らなかったが。


 ガイドブック巻末付録の地図を広げ、今日の観光予定地を確認しながら、私は昨夜のことを思い出して、少しだけ反省した。

(今日はむやみやたらと知らない人に付いて行かないようにしよう……)

 小学生が受ける注意のような決心をして、私は店を後にした。



 昨夜、往復したのと同じ場所とは思えないほど、心斎橋筋商店街はたくさんの人で賑わっている。

 流行の洋服屋や可愛いアクセサリーや雑貨を揃えた店が並ぶ通りは、若いカップルや、学生らしい女の子のグループで溢れていた。お洒落な服をマネキン人形のように完璧に着こなしたショップ店員たちの声が方々から聞こえてくる。商店街と聞くと、八百屋や魚屋が並び、威勢の良い店主が揃っているような光景を想像してしまう私にしてみれば、随分とファッショナブルなスポットに思われた。


 店員の声に呼び寄せられるかの如くあちこちの店を出入りし、物価の安さに釣られるように図らずも買い物を楽しみ、選挙活動に励むタレント議員をぼんやりと見送り、気付けば時刻は昼時になっていた。

 今日の昼食はオムライスと決めてある。ガイドブックによると、大阪はオムライス発祥の地であるらしい。オムライス好きとしては、本場のオムライスを是非とも食しておきたい。私は心斎橋筋商店街を外れ、脇道を進んで行った。

 地図を頼りにキョロキョロしながら歩いていると、やがて目当ての店が見えてきた。青地に白い文字で『明治軒』と書かれた看板を掲げるその店は、昭和元年から87年続く老舗であるという。

 わくわくしながら白く塗られた木の扉を開けて中へ入る。温もり溢れる木のテーブルが並ぶ店内を見ただけで、心が和むようだった。

 カウンターに通された私は早速オムライスを注文した。カウンターの中では数人のコックが忙しく動き回っている。一見すると大人数すぎて逆に動きにくいのではないかと心配になるが、彼らはぶつかり合うこともなく、泳ぐようにすいすいと厨房を行き交っている。コックたちの扱うフライパンがじゅうじゅういう音や、炒め合わされる玉ねぎや鶏肉の香りを楽しみながら、私はオムライスが出来上がるのを待った。


 間もなく運ばれてきたオムライスは、私がこれまでの人生で食べてきたどのオムライスよりも美しかった。卵はきれいな黄色で、その上にかけられたケチャップが赤くつやつやと光っている。スプーンを差し込むと切れた卵の間から、ふわっと湯気が立ち上った。一口ぶん運ぶと、深みのある味というのはこういうものか、思わず瞼を閉じて噛みしめてしまう。2日間、煮込んだという牛モモ肉か、それとも、ワインを始め、ペースト状にしてご飯に混ぜ込んであるという調味料がそうさせるのか。調理については詳しくないが、それでも手間暇かけて作られていることが瞬時に解る味である。しっかりと味わいつつ、しかしあっという間に平らげてしまった。



 明治軒から心斎橋駅へ向かい、私は今夜の宿が取ってある梅田を目指した。降り立った梅田には、同じように人や建物が溢れているが、なんば周辺とはまた違った趣があるように思われた。

 この地で覚えがあるのは、梅田駅に直結するヨドバシカメラである。そこは恭太郎に付き合って、入ったことがあった。

「会社の帰りとか、なにかのついでに、ここにはよく寄るんだ」

 そう言っていた恭太郎の声を思い出し、私は頭を振った。

 今、入店したところで恭太郎に遭遇することなどあるはずがない。それなのに、性懲りも無く都合の良い妄想を思い浮かべてしまうこの頭が、我ながら心底、嫌になる。


 駅近くのビジネスホテルでチェックインを済ませると、私はフロント係に道を訊ねた。

「中崎町に行きたいのですが」

 フロントの女性はすぐに地図を印刷してきて、ラインマーカーを引きながら、丁寧に道を教えてくれた。

「歩いて行ける距離ですが、この暑さです。気を付けてくださいね」

 親切な女性に会釈すると、私は目的地に向けて出発した。


大阪へ来てから既にだいぶ歩いたつもりで居たが、大半は夜であったから、私は夏の大阪を真には知らなかった。

その日、頭上には雲ひとつ無い青空が広がり、眩しい太陽光が何物にも遮られること無く、ぎらぎらと降り注いでいた。

徒歩で約20分と聞いたときにはたいした距離だと感じなかったが、いざ歩き始めてみるとそれは途方もなく遠い距離であるように感じられた。

最近、黒く染め直した髪が積極的に日光を吸収しているような気さえして、私はこまめすぎるほどこまめにコンビニ休憩やカフェ休憩を取りながら歩みを進めた。



中崎町は戦前の風景を色濃く残す地域で、古い家屋が雑貨屋やギャラリーとして使われている。

知らなければ、家なのか店なのか非常に判別が付きづらいので、ぼんやり歩いて居ては住宅街を通り過ぎただけの印象しか残らないだろう。現に私がそうであった。


ガイドブック片手にうろうろと迷ってみるが、雑貨屋にもギャラリーにも一向に巡り会える気配が無い。地図上では確かに中崎町と書かれているエリアに居るのに、全くそんな気がしない。

そのうち本当にエリアを外れてしまったのか、それまでちらほら擦れ違っていた人の姿も、すっかり無くなってしまった。似たような家屋が延々と並んでいるので、初めて通る道なのか、一度、通った道なのかもよくわからない。もはや完全なる迷子である。しかし、大人たるものこんなことで取り乱すわけにはいかない。私は通りの隅に寄り、冷静に地図を広げた。

 

 辺りはひっそりと静かである。そこへ突然「にゃー」という声が聞こえたので、私は文字通り、飛び上がるほど驚いた。

 鳴き声のしたほうへ目を向けるが、声の主であろう猫の姿は見当たらない。家屋の窓から張り出した柵にツタが絡み、その下にも植え込みが広がっているだけである。

 外敵から身を守るために、周りの植物や風景と同化する習性を持つ生き物が居ると聞いたことはあるが、まさか猫にもその習性が備わっているとは知らなかった。声の主は植え込みに紛れるようにして、室外機の上にチョコンと座っていた。

「ああ、ビックリした」

 人が居ないのを良いことに、私はその茶トラ猫に話しかけた。

「ねぇ君、どちらに進めばこの家屋迷宮を抜けられるかな」

 猫はくりくりした瞳で私を見返し「にゃー」と鳴いた。猫の細い首には犬のように首輪がかけられ、繋がれたリードは家の中に続いている。

「それじゃあ、道案内はしてもらえないね」

 私が苦笑しながら行こうとすると、少し先を進む、浴衣姿の男性が居ることに気が付いた。いつの間に、どこから現れたのか。しかし彼に付いて行けば、どこかに出られるかも知れない。久しぶりに見付けた人の姿を、私は思わず追った。


 不思議の国のアリスよろしく、するすると通りを抜けていく男性を見失わないよう追いかけて行くと、なんと本当に大通りに出ることが出来た。黙々と歩き続ける男性の背にそっと謝意を送り、私は再び中崎町に挑むべく、近くのカフェで作戦を練り直すことにした。

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