大人のキスって気持ちいい
「な、なにが今回は慣らすだけだ……」
おれはクタクタになって公爵邸に帰ってきた。
噴水を見つけると頭から水をかぶり、涼をとってその場にへたりこんでしまう。
五時間ぶっとおしでナイトフレームを操縦とか、どういうスパルタだよ。
フレームアームで訓練してたときは一時間以上の操縦には休みを入れながらやるのが常識だったんだぞ。
「死ねる……」
「だらしないぞ。あれくらいで」
クソッ。文句いう気力もない。
なんでこの女はこんなにピンピンしてるんだよ。化け物め。
「ずいぶんしごかれたようね。ケイスケ」
噴水のまえで通行人にジロジロ見られながらへばっていると、メイドのイオさんを連れたリンダ・リンガーハイム公爵があらわれた。
「公しゃ……リンダさん」
公爵と言いそうになってそっぽを向かれたので言いなおす。
彼女を名前でよぶだけで精神力を大きく削られた気分だ。
本当にこのままおれはこの人のことを名前で呼ばなきゃいけないのか? なんだかとなりのイオさんの笑顔が怖いんですけど。
「ずいふんと衰弱してるみたいだけど大丈夫なのかしら?」
これが大丈夫に見えますかねえ。
「ナイトフレームに乗せて五時間歩いただけだ。大丈夫だろ」
それを聞いたイオさんが驚きに目を丸くする。
「はじめてナイトフレームに乗ったアルフェイルをそのまま五時間も連れまわしたんですか?」
そうなんですよ。なんとか言ってやってください。
「ずいぶん無茶なことを」
やっぱりか。やっぱりこっちの世界でも異常なことだったんだ。 レスカのヤツはさも当然みたいな態度してたけど!
これには公爵も感心したようだ。
「魔力がよくもったわねえ」
「あっ」
彼女の言葉を聞いて、レスカが何かに気づいたように声をもらす。
なんだ今の「あっ」は!? 「しまった。忘れてた」みたいなつぶやきは!? すごく不安になるんですけど!
イオさんが俺の額に手を置く。
あっ、冷たくて気持ち良い。
「どうやら魔力が枯渇しかけてるようです」
魔力? そういえばナイトフレームに乗ってるあいだ、アルフェイルも魔力を消費してるんだったな。で、魔力が枯渇したらどうなるの?
なんか声も出なくなってるおれが口をパクパクさせて三人の顔を見比べた。
「よく死ななかったわね」
「このままだと死にますが」
「あー、すまん」
謝るくらいヤバイのか!
どうすんの!? いきなりおれの人生が完結しちゃうわけ!?
興奮したのがダメ押しになったのか、意識が次第に薄れてきやがった。あっ、本格的にヤバイ気がする。
「しかたないわね。預かったアルフェイルを死なせたとあったら公爵家の名折れだわ」
助けてくれるのならなんでもいいです。だから早くして。
「イオ、魔力を補充してあげなさい。この三人のなかでは、あなたが一番適任だから」
「うけたまわりました」
何をどうするつもりなのか、イオさんはおれのかたわらに跪き、そっとおれの上半身を抱きかかえる。
あっ、もうダメだわ。
初瀬啓介は異世界で散ります。
おれがそう覚悟をきめたときだ。
「失礼します」
そう一言断りを入れ、イオさんの顔がおれの顔に近づき……。
「――!」
そのままキスされた。
もう一回言っておく。キスされた。イオさんに。あの美人メイドさんに。
もう一回言っとくか?
キ・ス・されたんだ。あのイオさんに。あの美人で何事にも冷静そうなメイドのお姉さんに。
「んっ……ピチャ……んんっ……れろ……ジュル……」
しかもただのキスじゃないぞ。
おれはいま舌を入れられてる!
イオさんの軟らかい舌が別の生き物のようにおれの舌とからめとって、唾液が交換されていく。
なにこれ? なにこれ? 舌の裏側を撫でられただけでどうしてこんなに気持ちがいいの?
未知の体験に背筋が震える。
こいつは死んでる場合じゃないな!
現金なもので、そう思うと本当にちょっと活力がわいてきた。
乾いたスポンジに水でもかけるように、全身の細胞が何かに満たされていく気がするのだ。
そしてイオさんの顔はゆっくり離れていった。
ふたりの舌のあいだで互いの唾液が混ざって輝く淫靡な光景に頭がクラクラする。
「はあ……はあ……はあ」
こうして夢のような時間が終わりをつげた。
おれはもう放心状態である。
「はっはっはっ。マヌケな顔だな」
「いえいえ。なかなかどうして、可愛い顔じゃない」
ひとりで舌だしてキスをねだるかのような顔をレスカと公爵に笑われた。
このふたりがいるの忘れてた!
「み、見ないで!」
思わず顔を手で覆い隠してしまった。
「元気が出たみたいですね」
「あっ」
顔を真っ赤にして抗議するおれを確認してイオさんが立ちあがる。
離れていく温もりが少し淋しい。
「えーっと、けっきょく何だったんです?」
「魔力は生命力をもとに生まれるので、これが枯渇すると死ぬこともあります。気をつけてください」
「あ、ありがとうございます」
彼女に礼を言ってからレスカに向きなおる。
「おまえ、そんな危険なことさせたのか!?」
「いやあ、すまんすまん。でも役得だっただろ?」
「むう」
それは否定できない……。
「でもなんでキス?」
「魔力の補充は体液をとおして行うのが一番手っとり早いのよ」
「そうなんですか」
リンダさんのその説明に魔法素人のおれとしては納得するしかない。
「本来なら監督不行き届きということでレスカがやるべきなんでしょうけど、仮にも一国の王女だものね。それにわたしも公爵という身分だし。みだりに唇を許すわけにはいかないの。それでイオにしてもらったというわけ」
「それは重ね重ね、ありがとうございます」
もう一度、イオさんに頭をさげておく。
「人命救助の人工呼吸のようなものです。それより公爵さま」
まるで何事もなかったかのようなイオさんの態度。
このクールさがいい!
キスひとつでおれはもうすっかりイオさんの虜になっていた。
……いや、単純だってのはわかってるよ。男ってそんなもんだ。
「ああ、そうだった。これをケイスケに渡しておこうと思ってたのよね」
「それを口実にサボろうとしてただけですが」
「イオ、うるさい」
「申しわけありません」
「なんですこれ?」
渡されたのは一通の封筒だ。
宛先はたしかにおれになってるけど、異世界にきたばかりのおれに配達?
送り主は……。
「地球互助会?」
「そこに書いてあるとおり、むこうの世界から来た人たちがこの世界で助けあうために作った組織よ」
そんな組織があったのか。まあ、あっても不思議ではないか。おなじ国の出身者同士が異国で助けあうことはよくある話だ。ましてや異世界をやである。
「でも、これをどうしてリンダさんが?」
「ケイスケがここにいるあいだ、あなたへの連絡および郵便物は全てわたしを通して行われることになってるの」
おれのプライバシー……なんてあるわけないな。
「この街に本部があるから行ってみたらどうかしら? たしか地球互助会はアルフェイルむけのナイトフレームマニュアルを出してたはずよ」
「本当ですか!?」
そうだ! マニュアルだよ! なんで今まで気づかなかったんだ。
あれだけフレームアームと違うものに変貌をとげていたナイトフレームだ。あとからくるアルフェイルのためにマニュアルを作ろうという先輩がたがいてもおかしくないじゃないか!
おれは勢いこんで立ち上がった……のだが、
「うおっ!」
まだ足に力がもどっていなかったため、盛大にコケてしまった。
「キャッ!」
イタタタタタ……くない? あれ?
なにか柔らかいものがおれの顔をつつんでいる。それがクッションになっておれを守ってくれた。
「えーっと……」
「ほう。大胆だな。世界三大女傑にも数えられる公爵を押したおすなんて」
えっ?
恐る恐る目を開けてみると、おれは公爵に覆いかぶさるようにして、あの豊満な胸に顔を埋めていた。
「ずいぶんな不埒者ね。これでもわたしは人妻なのだけど」
公爵って結婚してたの?
なによりもまずそんな疑問が頭に浮かんだ。
そんな余裕があったのも、公爵の声がからかう調子でそれほど怒ってはいないようだったからだ。
はあ。助かっ――
「殿下、腰のモノをお貸しいただいてよろしいですか?」
「何に使うんだ?」
「この不埒者の首を刎ねます」
――てない!
イオさんとレスカの会話におれの全身から血の気がひいた。
「元騎士のイオ・グレンダムが言うとシャレにならないな」
イオさんて元騎士なのか!
次々と明かされる驚きのプロフィール。
そいつは本当にシャレになってない!
「ちょ、ちょっと待った! いま起きるから!」
急いで身を起こそうとするが、腕にも力が入らないので上手くいかない。
結果、おれは公爵の上でもがくことしかできず、
「アンッ。ちょっと、そんな必死に顔で胸をまさぐらないでちょうだい」
これが人妻の余裕!? 完全におれが混乱してるのを楽しんでらっしゃる。
「ごめんなさい! わざとじゃないんです!」
「そのわりにはいっこうに退かないな、おまえ」
「体に力が入んないんだって! 起こしてくれると助かる!」
「やれやれ。なんて情けないヤツだ」
反論のしようもねえ。
でもこっちは命がかかってるんだから格好なんてつけてられるか。
レスカが肩を貸してくれて、ようやくおれは公爵さまの上からのくことができた。
「公爵様、お怪我は?」
イオさんがおれをにらみながら主人を助けおこす。
「大丈夫よ。ほんとう、ケイスケといると新鮮な体験をさせてもらえるわ。まさか押し倒されるなんて」
「ええっと。すいません。人妻とは知らず。ああ、いや、人妻じゃなければいいってことじゃないですけど」
公爵さまはクスクス笑ってらっしゃるが、イオさんの目はひたすら怖かった。
完璧にイオさんに嫌われてしまった……。
さようならおれの恋。
「人妻と言っても政略結婚で夫婦仲は冷え切ってるから気にすることないわ」
「そうなんですか」
ちょっとホッとした。
「反省してないようですね」
「してます! してますから!」
だから背後から脅かさないで。
「あの男はわたしを怖がってるのよ。情けない人」
公爵の遠くを見るような目に、おれは少し悲しくなった。
そういえば、この人はおれに名前をよばせるとき、ひとりくらいそういう人がいても良いと言っていた。
それはつまり夫からも名前でよんでもらえないということじゃないのか?
家族がいるのに孤独な公爵の辛さは、家族がいない孤児のおれには理解できないものだ。
「もったいない。リンダさん、こんなにキレイなのに」
だからだろうか? 思わず本音がポロリともれてしまった。
せっかくの家族、大切にすればいいのに。
そんな思いでおれは公爵のお相手に憤っていたわけだが、ふとなにかおかしな雰囲気に気がついた。
「あれっ?」
見れば公爵の頬が少し赤くなっていたような気がした。
気がしたというのは、おれがそちらを見るとすぐにうつむいてしまったため、よく見えなかったからだ。
そして次に顔をあげたときには、彼女はあのからかう笑みを浮かべていた。
「それはわたしのことを口説いてるのかしら?」
「へっ?」
そこでおれはようやく自分の言葉の迂闊さに気がついた。
「いやあの! そういう意味じゃ……」
「ふふふっ。わたしと不倫したいんだ? いいわよ。大丈夫、あの夫は何も言えないわ」
そう断言して、しなだれかかってくる公爵。
「わたしの唇を奪っておいて、いい度胸ですね」
ひぃぃぃぃぃ! 夫はともかくイオさんが何か言いたそうなんですけど!
っていうか、形としてはおれが奪われたほうですから!
イオさんでもそんな冗談言うんですね!
もしかしてけっこうお茶目な人なのか?
いや、たんに公爵を押し倒したことにお灸をすえようとしてるだけか。
「おっ? 面白そうだな。これはわたしも乗っかったほうがいいのか?」
「乗っからなくていい!」
レスカまでが悪ノリして背中から腕をまわしてきた!
彼女はその態勢のまま耳元で囁いてくる。
「ひどいじゃないかケイスケ。昨夜はわたしのバスタオル姿に我慢できなくなったくせに、もう他の女に乗り換えるなんて」
噴水前の四人の痴態?に、公爵邸の庭を通りすぎる通行人がジロジロと見てくる。
とりわけ女性のゴミクズを見るような視線が痛い。
いやッ! そんな目で見ないで! 誤解なんです!
などという言い訳が、状況を理解していない人間に通用するわけもなく、とにかくおれはこの悪戯好きの三人を止めなければと、言葉づかいも忘れて叫んでいた。
「おまえら、いい加減にしろ!」
おれの絶叫が異世界の空にこだました。