「夕暮れ時の太陽に」
「夕暮れ時の太陽に」
僅かなオイルの匂いがジッポーの残り香で漂う。
金属がぶつかる音も長年使い込んだこのジッポーにはこの先あまり期待できそうにない。
それでも手に馴染んだこのジッポーを志木は使い続けようと思っていた。隣で眩しそうに目を細める女性の幻影が夕陽に溶けて、消える。
あと数十分も待たないでこの場所は夜の帳が落ちるだろう。
それでも今日この日、この時間にこの場所で一本の煙草を吸うことは、志木の日課になっていた。
水面に反射するオレンジの小川は志木をその先にある畔へ誘う様に、風に揺れて輝く。意味もなく、ジッポーを開閉する。
「綺麗だな」
この独り言も志木の口癖になっていた。
それはこの場所に来た時だけのことだったが、それでも365日の1日口にするだけのこの言葉に返事をしてくれる女性はもう、いない。
深く吸い込んだ煙に体が痺れる感覚が襲う。防波堤に座り込んだ志木の体が前のめりに、揺れる。
全体の半分以上を地平線の果てに沈め込んだ太陽に、片手を上げた志木は携帯灰皿に吸殻を入れこむ。
そして、防波堤の脇、小さな花瓶が置かれたその場所に燃えるようなマリーゴールドを差し込む。
それは昼夜咲く、小さな夕陽。その夕陽に零れた滴を拭った志木は、消えかかる夕陽に、祈った。
どうかあと少しだけ、道を照らしていてくれ、と。
そして、目の前の小さな夕陽に願った。
どうか暗闇が嫌いなあいつを優しく照らしてくれ、と。
オレンジ色の水面に差し始めた暗闇に、いつかの恋人の笑顔を、それはこの場所が大好きだった最愛の女性の笑顔を思い浮かべた志木は、たったひとり、皺くちゃな左手にそっと嵌められた指輪を、撫ぜていた。
FIN
お読みいただきありがとうございます。
これはフィクションの物語ですが、作者の一抹の想い出を小説に起こした一説になります。
誰かの想い出を胸に押し込めようとしても、夕陽のあの優しい光だけには隠しようがありません。
月の優しさとは違った、それは包み込まれるような暖かさ。
皆様がどんな夕陽の想い出をお持ちかは存じませんが、この一片の小説を通して、大切な想い出に、そっと触れていただければ幸いです。
それでは、失礼いたします。
ありがとうございます。