朝の作品 ~そんなサイトはございません~ 小説ラリー
『神聖なるスカラベと、汲み取りの来ない家』
牛は一日で十個から十五個の糞を落とす。
ゾウに至っては、一時間で二キロもの排泄物を大地にぶちまけるという。
地球が生きとし生けるものの糞で埋め尽くされないのは、偏にマグソコガネのおかげだ。彼らは糞が落ちるや否や群がり、二時間も経てば跡形もなく片付け、丸めて地中に埋め、土を肥やし、病原菌を減らす。古代エジプト人が太陽神の化身「スカラベ」として崇めたのも納得の、まさに神聖なる大自然の清掃部隊である。
「……で、うちの便槽にはマグソコガネ、一万六千匹も湧いてくれないわけ?」
志乃はスマートフォンの画面をスクロールしながら、深いため息をついた。
画面には、ツヤツヤと輝くマグソコガネの生態解説。そして手元のノートには、故郷の母から届いた手紙の文面が書き写されている。
『おじいちゃんが倒れて、離れの汲み取り便所が満杯寸前です。業者さんに頼もうとしたけれど、公道からうちの敷地までの私道が狭すぎて、バキュームカーが入ってこれないって断られました。志乃、なんとかしてくれませんか』
なんとかしてくれと言われても、志乃は今年で二十三歳。王都ならぬ大都会の賃貸アパートで一人暮らし、ボタンひとつで水が渦を巻き、すべてを彼方へと押し流してくれる水洗トイレしか知らない世代である。
実家は、山あいの集落のさらに奥。
軽トラックが草木を擦りながらようやく通れるような、曲がりくねった畦道の突き当たりにポツンと建っている。
昔は近所の農家のおじさんたちが、肥溜めから柄杓で汲み取っては畑の肥料にしてくれていたらしい。だが過疎化と高齢化が進み、化学肥料が当たり前になった今、そんな風習はとっくに途絶えていた。
「帰りたいよ、おじいちゃんのお見舞いも行きたいし、お母さんも手伝いたいよ……でも、トイレが使えない家になんて帰れるわけないじゃん!」
志乃は頭を抱えた。
もし実家に帰ったら、最初に対面するのは病気のおじいちゃんではなく、黒く澱んだ四角い穴と、鼻を突く強烈なアンモニア臭だ。
汲み取りのやり方なんて学校では教えてくれなかった。柄杓で掬ってバケツに移すのか? 移したとして、どこに捨てるのか? 庭に穴を掘って埋めるのか? 一回分ならともかく、何ヶ月分も溜まったものを?
「無理、絶対に無理。私のHPは柄杓を持った瞬間にゼロになる」
志乃は机に突っ伏した。
ふと、画面のマグソコガネと目が合った気がした。
(食べない分はすべて、転がして丸い形にし、地面に埋めて子孫のえさにする……)
「あんたたち、人間のやつもいける口なの? いけるなら今すぐうちの実家の床下に引っ越してきてよ。大ごちそうが山ほどあるよ。病気のリスクも減らして、土壌に窒素も加えてくれるんでしょ? 神様、仏様、スカラベ様……!」
もちろん、スマホの画面から虫が飛び出してくるはずもない。
部屋の隅には、十年間使い倒して沈黙した水冷パソコンが静かに佇んでいる。あの頼れる相棒が生きていた頃なら、ネットの海から「バキュームカーが入らない僻地の汲み取り裏ワザ」を徹底的に検索してくれたかもしれないが、今は電源すら入らない。
志乃はスマートフォンを握りしめ、覚悟を決めて検索窓に打ち込んだ。
『バキュームカー 入らない どうする』
検索結果には、過酷な現実と、いくつかの知恵が並んでいた。
――「小型のバキュームカー(軽四タイプ)を保有している業者を探す」
――「ロングホース(百メートル以上)を延長できる業者に相談する」
――「簡易バイオトイレやコンポスト化の導入」
――「最終手段:手動ポンプと密閉タンクによる人力搬出」
「ひっ、人力搬出……!」
志乃は悲鳴を飲み込んだ。それだけは絶対に避けたい。
だが、スクロールしていくうちに、ひとつの解決策が目に留まった。
『ホースの延長作業には別料金がかかりますが、軽トラが通れる道なら、中継用の小型タンクを載せてピストン輸送してくれる良心的な業者も存在します。まずは地元自治体の環境課に相談を』
「……役場」
志乃は目を見開いた。
そうだ。一人で柄杓を持って戦う必要なんてないのだ。
パソコンだって、CPUだけで動いていたわけじゃない。グラフィックボードも、メモリーも、冷却水も、それぞれ得意な役割を分担していた。
人間だって同じだ。志乃に糞尿の処理はできなくても、電話をかけて相談することならできる。
志乃はノートの新しいページを開いた。
『実家ミッション:汲み取り問題を解決せよ』
その下に、震える手でペンを走らせる。
一、実家の町の環境課に電話して、狭小道路対応の業者を聞く。
二、ロングホース対応、または小型車ピストン輸送が可能か見積もりを取る。
三、お母さんに報告して、業者を手配してもらう。
四、トイレが空っぽになったら、胸を張って帰省する!
志乃はノートをパンと叩いた。
「待っててね、おじいちゃん。お母さん。私、マグソコガネにはなれないけど、電話くらいはかけられるから!」
窓の外では、秋の風が心地よく吹き抜けていた。
遠いアフリカの大地でせっせと糞を転がすスカラベたちに、心の中でそっと敬意を払いながら、志乃は受話器のボタンに指を伸ばした。
って、とうの昔に身罷ってしまった祖父母、両親
またあいたいよ~><
◇◇◇
https://ncode.syosetu.com/n2924ix/
朝の作品 ~そんなサイトはございません~
作者: しゅうきち
掲載日:2024/04/16
を読んで書いた作品です。
いつも応援ありがとうございます。
◇◇◇
神聖なるスカラベと、聖なる牛糞の炎
~神様、そこまでおっしゃいますか~
志乃は、スマートフォンを握りしめたまま固まっていた。
実家の汲み取り便所を救うため、マグソコガネの生態を調べ始めてから、すでに三時間。
最初は、ただ便槽の中身を片付けてくれる虫がいないか探していただけだった。
ところが、調べれば調べるほど、糞というものは奥が深い。
土を肥やす。
病原菌を減らす。
昆虫の食料になる。
乾燥させれば燃料にもなる。
「……燃料?」
志乃の指が止まった。
検索結果には、思いがけない一文が表示されていた。
『エゼキエルは、人の糞を燃料としてパンを焼くよう命じられたが、それを拒んだため、代わりに牛の糞を用いることが許された』
「…………は?」
志乃は画面を二度見した。
三度見した。
念のため、スマートフォンを裏返してから、もう一度見た。
文字は変わらなかった。
「ちょっと待って。エゼキエルって誰?」
調べてみる。
旧約聖書に登場する預言者。
「預言者……」
さらに調べる。
神から命令を受け、その言葉を人々に伝える人物。
「神様からの命令……」
志乃は天井を見上げた。
「……神様、そこまでおっしゃいますか?」
もちろん、天井は答えない。
蛍光灯が、何も知らない顔で白く光っているだけだった。
志乃は改めて文章を読み直した。
どうやら、エゼキエルに命じられた行為は、単なる調理法の提案ではないらしい。
包囲された都市で、人々がどれほど厳しい生活を強いられるか。
その苦難を示すための、象徴的な行為だったという。
「なるほど……。つまり、料理番組じゃないのね」
志乃は少し安心した。
神様が突然、
『本日のおすすめ燃料は、人糞です』
などと宣言したわけではなかった。
それでも、疑問は残る。
「いや、待って。エゼキエルさん、よく交渉したわね」
志乃は、頭の中で勝手に場面を再現した。
『エゼキエルよ。これを燃料にしてパンを焼きなさい』
『主よ、それだけはご勘弁を!』
『では、牛の糞にしてよい』
『ありがとうございます!』
「……ありがとうございます、なの?」
志乃は首をかしげた。
「人の糞よりはいいけど、牛の糞よ? 交渉の着地点、そこなの?」
現代の日本なら、まずガス会社に電話するところである。
しかし、古代の生活には古代の事情がある。
乾燥させた家畜の糞は、木材の乏しい地域で実際に燃料として利用されてきた。
きちんと乾燥させれば燃える。
つまり、牛は乳を出し、畑を耕し、最後には燃料まで提供するという、実に働き者の生き物だった。
「牛さん……あなた、どこまで人類に尽くすの……」
志乃は胸に手を当てた。
そして、はっとした。
「待って。うちの実家の便槽も、燃料にできるんじゃ……」
その瞬間、志乃の頭の中に、恐ろしい光景が浮かんだ。
山奥の実家。
満杯寸前の便槽。
庭に設置された巨大なかまど。
燃え盛る炎。
そして、満面の笑みで鍋をかき混ぜる母。
『志乃、お風呂が沸いたわよ!』
「いやあああああっ!」
志乃は椅子から飛び上がった。
「無理! 絶対に無理! そんなお風呂、心まで洗えなくなる!」
そもそも、家畜の乾燥糞を燃料にする伝統的な利用と、汲み取り便所にたまった人間の排泄物を家庭で勝手に燃やすことは、まったく別の話である。
衛生上の危険もあれば、悪臭もある。
処理や廃棄には地域の決まりもある。
志乃は慌ててノートに書き込んだ。
『実家ミッション・追加事項』
『五、便槽の中身を燃やそうとしない』
少し考えてから、もう一行加えた。
『六、神様に相談する前に役場に相談する』
「よし」
志乃は満足げにうなずいた。
これで、少なくとも人類が数千年かけて築いてきた衛生環境を、自分の思いつきひとつで逆行させる危険はなくなった。
しかし、問題はまだ終わらない。
志乃は再びスマートフォンを見つめた。
マグソコガネ。
古代エジプトでは、太陽を運ぶ神聖な存在として崇められた虫。
牛の糞。
古代から人々の暮らしを支えてきた燃料。
そして、旧約聖書に登場する、あまりにも具体的な排泄物の話。
「……なんなの、この世界」
志乃はつぶやいた。
「糞のことを調べてるだけなのに、神様が次々出てくるんだけど」
エジプトではスカラベが神聖。
旧約聖書では、牛糞が預言者の調理を支える。
いったい、どこまで行けば普通のトイレの話に戻れるのだろう。
そのとき、志乃はふと、先日読んだ小説を思い出した。
ある男が、自分の排泄物を「作品」と呼び、会員制サイトに投稿するという、実に堂々たる物語である。
その男は、作品を美しく撮影するために、最新のiPhoneを三十六回ローンで購入していた。
「……あのおじさん」
志乃は遠い目をした。
「もしかして、古代エジプトから続く神聖な文化の継承者だったの?」
違う。
たぶん違う。
いや、絶対に違う。
しかし、志乃の頭の中では、すでに妙な理屈が完成しつつあった。
スカラベは糞を丸めて太陽になぞらえられた。
古代の人々は糞を燃料にした。
現代のおじさんは糞を撮影してネットに公開した。
「……つまり、人類は何千年もかけて、糞の活用法を進化させてきた?」
志乃は真顔で考えた。
「土に埋める。燃やす。撮影する」
そこで、はたと気づく。
「最後だけ、明らかに進化の方向がおかしいわ!」
志乃の笑い声が、小さなアパートに響いた。
部屋の隅では、十年間働き続けた水冷パソコンが、相変わらず沈黙している。
もし、あの相棒がまだ動いていたなら。
きっと、こんなふうに文句を言っただろう。
『ちょっと志乃! あんた、何を検索してるのよ!』
『スカラベ? 牛糞? 旧約聖書?』
『私の高性能な部品を、いったい何に使ってるわけ!?』
『……え? 小説のネタ?』
『まったく。あんたの創作意欲って、どうしてそんな方向にまで伸びるのよ!』
志乃は、動かなくなったパソコンを見つめた。
「……ねえ、相棒」
少しだけ、声が優しくなる。
「あなたが生きてたら、きっと一緒に笑ってくれたよね」
返事はない。
けれど、志乃はすぐに笑顔を取り戻した。
「よし。決めた」
スマートフォンを握り直す。
「この話も、小説にしよう」
便槽の問題は、まだ解決していない。
役場への電話も、まだかけていない。
おじいちゃんのお見舞いにも、まだ行けていない。
それなのに、志乃の頭の中では、すでに次の物語が走り始めていた。
「タイトルは……そうね」
志乃は少し考え、勢いよく入力した。
『神聖なるスカラベと、聖なる牛糞の炎』
「完璧!」
何が完璧なのかは、本人にも分からない。
ただひとつ確かなのは、世界には想像以上に多くの糞の物語が存在するということだった。
そして、もうひとつ。
神聖なスカラベも、旧約聖書の預言者も、三十六回ローンでiPhoneを買ったおじさんも。
志乃の実家の便槽を空にしてはくれない。
志乃は、ようやく電話帳を開いた。
「……もしもし。役場の環境担当の方、お願いします」
古代エジプトから旧約聖書まで、壮大な寄り道をした末に。
志乃はついに、現代日本の行政サービスへとたどり着いたのである。
神様、仏様、スカラベ様。
そして何より――
**役場の担当者様。**
どうか、うちの便槽をお救いください。
ちなみに牛糞と鶏糞はバラの高価な肥料として売られている。




