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聖女、巡礼さぼりがち

作者: 酩蘭 紫苑


 「エリシア様!聖女様!いい加減にお目覚めを!本日は待ちに待った栄光ある『浄化の巡礼』への出発日ですぞ!」


朝の柔らかな光が差し込む聖域の一室。

その静寂を叩き割るように分厚い扉の向こうから生真面目な声が響き渡る。

声の主は私の護衛騎士兼お目付け役の『アレク・ランフォード』。

今日も今日とて、彼のモーニングコールは絶好調にやかましい。


私はふかふかのベッドの上で天蓋のレースをぼんやりと見つめながら、心の底から思った。


(帰りてぇ……)


いや、どこに帰るというわけでもない。

この聖域の自室こそが私のホームであり、ユートピアなのだから。

強いて言うならアレクの声が届かない夢の中に帰りたい。


「……あと五分……」


「昨日も同じことを!もはや貴方が発する『五分』は古代魔法における時間停止呪文か何かですか!?」

「だとしたら、わたくしはとっくに大魔法使いですわね……」


のろのろと体を起こす。

床に届きそうな銀髪がさらりと流れ、簡素な寝間着(シルク製)の隙間から華奢な肩がのぞく。

鏡に映る自分の姿は儚げな美少女そのもの。

金色の瞳に透けるような白い肌。

誰もがひれ伏す聖女『エリシア・フォン・リーリエンス』。それが私だ。


だがその中身は________


(ああ、働きたくない……。なんで私、今世でも働かなきゃいけないの……)


そう、私には前世の記憶がある。



前世の私は日本の東京というコンクリートジャングルで生きる、しがない社畜OLだった。


鳴りやまない電話、積み上がる書類、終わらない残業。


「お客様のため」「会社のため」という呪いの言葉に縛られ、心身をすり減らし続けた結果、ある月曜の朝に私は自分のデスクで静かに突っ伏し、二度と起き上がることはなかった。


享年二十八歳。死因、過労死。生涯彼氏なし。


薄れゆく意識の中で誓ったのだ。


「もし、もしも次があるのなら絶対に働かない。石ころのように、道端の苔のように、ただ静かに、ぐうたら生きてやる」と。


その願いが半分だけ聞き届けられたのか、私は剣と魔法のファンタジー世界に転生した。

しかも大層な公爵家の令嬢として。


これだ!これこそ私が望んだセカンドライフ!

幼い頃から「病弱」という設定を自己プロデュースし、ひたすらに引きこもり、読書三昧のぐうたら生活を謳歌していた。


その平和が崩壊したのは十五歳の誕生日。


「聖女、降臨。エリシア・フォン・リーリエンスこそ、百年ぶりに現れたる、我らが聖女である!」


神殿で高らかに告げられた神託。

その瞬間、私は前世の過労死以上に深い絶望を味わった。


聖女?

聖女ですって?


民のために祈り、国のためにその身を捧げ、病を呼び起こす瘴気を浄化し、魔物を討伐する、あの聖女!?


冗談じゃない!

そんなの三百六十五日二十四時間対応、休日なし、代わりなしの超絶ブラック企業も真っ青なワンオペ激務じゃないか!


神様、あんまりです……。

私が何をしたっていうんですか。

社畜から聖女って、転職先がブラックすぎるにも程があるでしょう!いや転生先か。



以来、私の人生の目標は「いかにして聖女の業務をサボるか」の一点に絞られた。


前世の知識を総動員し「祈りのリモートワーク化」「浄化魔法の効率化」「儀式のペーパーレス化」など、数々の業務改善案を大神官に提出したが、そのことごとくが「聖女様、お言葉の意味が……」と困惑の表情で差し戻されてきた。

解せぬ。


そして今日、ついに最大の強制労働イベントである『浄化の巡礼』の日がやってきてしまったのだ。


「エリシア様!開けますよ!」

「あっ、待っ……!」


ガチャリ。

無情にも扉は開かれた。


そこに立っていたのは、漆黒の騎士服に身を包んだ、眉間に深い谷を刻んだ美青年。

私のぐうたらライフを脅かす最大の(みかた)である。


「おはようございます、アレク。今日も良いお天気。これほど世界が光に満ちているのですから、わざわざわたくしが出張するまでもなくないですこと?」


完璧な聖女スマイルで先制攻撃を仕掛けるも、百戦錬磨の彼には通じない。


「寝言は寝て仰ってください。既にあなたは寝てすらいませんが。さあ支度を。民が、世界が、聖女様を待っています」

「そのプレッシャーが重いのよ……。ねえアレク、ワークライフバランスって知ってる?聖女にだってプライベートは必要なの。人権を要求します」

「ジンケン……?また新たな古代語ですか。とにかく、北の地方の瘴気は看過できぬレベルです。貴方のその歴代最強と謳われる聖力はこういう時のために神から与えられたものでしょう」


ああもう!この生真面目騎士。話が通じない。


結局、侍女たちにドレスを着せられ、髪を結われ、完璧な『お仕事モード』の聖女様に仕上げられた私は半ば引きずられるようにして豪華な馬車へと押し込まれた。


「では、出発する」


アレクの号令と共に、馬車がゆっくりと動き出す。

王都の民衆からの熱狂的な歓声が聞こえるが、今の私には騒音でしかない。


(ああ……私の平穏な引きこもり生活が……。読みかけの魔導書、やりかけの魔法陣の研究、育て始めた薬草……)


「聖女様、何をそんなに落ち込んでおられるのです。これは貴方様にとって、そしてこの国にとって、栄誉ある旅路なのですよ」


隣に座るアレクが少しだけ心配そうに私の顔を覗き込む。


「……アレクはどうしてそんなに真面目なの?」

「は?真面目……。それが騎士の務めですから」

「でも、疲れない?誰かのため、国のためって。自分を犠牲にしてばっかりじゃない」


前世の自分が、ふと重なった。


アレクは少し驚いたように目を瞬かせたがやがて真っ直ぐな蒼い瞳で私を見つめ返した。


「俺は、父を瘴気で亡くしました。母も、その心労で後を追うように。誰かがやらねば俺のような思いをする者が増えるだけです。聖女様、貴方にはそれを止める力がある。俺はその力を信じ、お守りするのが誇りなのです」


……重い。

思った以上に背負っているものが重かった。


こういう実直で誠実なタイプは社畜時代の後輩にいた。そしてそういうタイプほどあっさり心を病んで辞めていくのだ。


「……そう。なら、せいぜい頑張ることね。わたくしは、あなたを過労死させない程度には協力してさしあげますわ」

「は、はあ……。ありがとうございます……?」


なぜか微妙な顔をされたが、これは私なりの最大限の優しさだった。



最初の目的地は『水の街アクリア』。

豊かな水源で知られる美しい街だが、最近その水源に微量の瘴気が混じり始めたらしい。


「まあ、小手調べといったところですわね。ちゃっちゃと終わらせて、その日は美味しいものでも食べてゆっくり休みましょう」


そう、この時の私は完全にタカをくくっていた。

「どうせいつもの定期メンテナンスのようなものだろう」、と。



アクリアに到着して私は自分の認識の甘さを呪った。


「……何、これ」


馬車の窓から見えたのは美しい水の街の面影もない、淀んだ灰色の光景だった。

活気あるはずの街路は閑散とし、人々は家の窓から不安げにこちらを窺っている。

そして何より、街の象徴であるはずの水路を流れる水は禍々しい紫色に変色し、微かな悪臭を放っていた。


「ひどい……。報告にあったレベルを遥かに超えているぞ!」


アレクが息を呑む。


私も顔をしかめた。

これはどう見ても「微量の瘴気」などという生易しいものではない。


(完全に想定外のトラブル発生。完全に残業案件じゃない……!)


聖女としての威厳も何もなく、私は馬車から飛び降りた。


「エリシア様!?」


「大神殿への挨拶は後回し!アレク、あなたは騎士団を率いて住民の安全確保と情報収集を!瘴気の発生源はおそらく街の心臓部である『清澄の泉』!わたくし一人で行ってくるわ!」

「無茶です!聖女様お一人など、万が一のことがあれば……!」

「万が一なんて起こさせない。いい?これは業務命令よ。あなたたちに何かあれば後処理が増えて面倒だもの」


早口でまくし立てるとアレクの返事を待たずに駆け出した。


面倒なのは大嫌いだ。人前に出るのも億劫だ。


だけど目の前のこの状況は、私の「平穏」を著しく侵害している。

このまま放置すれば浄化作業は長引き、私のぐうたらライフは遠のくばかり。


____ならば、やることは一つ。


根本原因を最速で、完全に、叩き潰す!



瘴気が最も濃い方向へとドレスの裾を翻して疾走する。その足取りは先程までのぐうたらぶりが嘘のように軽やかで迷いがなかった。


前世で鍛えた遅刻ギリギリの通勤ダッシュが今、役に立つとは皮肉なものだ。



『清澄の泉』は、もはやその名を語るのもおぞましい光景と化していた。

泉の水はヘドロのように黒く濁り、その中心からぶくぶくと泡を立てて、泥と瘴気が混じり合った異形の魔物(ダーク・スライム)が次々と湧き出している。


「うわぁ……。生理的に無理」


本音が漏れる。

だが感傷に浸っている暇はない。

私は泉のほとりに立つと、すぅ、と深く息を吸った。


胸の前でそっと手を組み、目を閉じる。


(面倒。面倒。面倒。さっさと終わらせて帰りたい。帰ってあったかいお風呂に入って、読みかけの本の続きを読んで、ぐっすり眠りたい!)


私のモチベーションは世界平和でも人々の笑顔でもない。ただひたすらに、個人的な安寧のため。

だが、その渇望こそが私の聖力を無限に引き上げる。


「___我が声は、天上の福音。我が祈りは、破邪の聖光。万物を育む聖なる樹の名において命ずる」


全身から淡い光の粒子が溢れ出す。

それは次第に輝きを増し、夜の闇を昼に変えるほどのまばゆい光輪となった。


「一掃なさい___『浄化(ピュリファネーション)』ッ!!」


次の瞬間、私の体から放たれた光は光速の津波となって泉を飲み込んだ。


ジュウウウッ、という蒸発音と共に黒い水は一瞬で黄金の輝きを取り戻し、瘴気は聖なる光に焼かれて霧散する。

湧き出ていた魔物たちは悲鳴を上げる間もなく塵へと還った。


光が収まった後には本来の清らかな水面がキラキラと輝く『清澄の泉』と、静寂だけが残されていた。


「ふぅ……。こんなものでしょう。さて、帰……」


私が踵を返そうとした、その時。


泉の中心の、さらに奥底から、今までとは比べ物にならないほど邪悪で冷たい気配が立ち上った。


「ほう。これは驚いた。当代の聖女は、なかなか骨があるな」


空間がぐにゃりと歪み、漆黒のローブを纏った一人の男がまるで水面に立つように現れた。

その顔は深いフードの影に隠れて窺えないが、愉悦に歪んだ三日月形の口元だけが、やけに印象的だった。


「貴方が、この街を汚した元凶ですの?」

「いかにも。だが、これはほんの挨拶代わり。この世界の人間がどれほどの絶望に耐えられるのか、試しているのさ」


男が指を鳴らすと、彼の足元の影が(うごめ)き、巨大な狼の形をした魔獣を召喚した。

その体躯(たいく)は瘴気の鎧を纏い、両の目には飢えた紅蓮の光が宿っている。


(げっ。ボスキャラ登場とか聞いてないんだけど!完全に仕様外のイベントじゃない!)


私が内心で悪態をついた、その時。


「___聖女様!ご無事ですか!」


息を切らして駆けつけたアレクが私と男の間に割って入った。剣を抜き放ち、私を背に庇うようにして瘴気の魔狼と対峙する。


「お下がりください!ここは俺が!」

「アレク……。だから一人でいいって言ったのに」


口ではそう言いつつも彼の背中が、今は少しだけ頼もしく見えた。


(まぁ……いいか。タンク役がいるなら私は後方支援に徹した方が効率的ね。これも一種の業務分担だわ)


私はそっと、彼の背中に手のひらを当てた。

温かい聖力が私の手から彼へと流れ込んでいく。


「神の祝福を、貴方の剣に。『聖なる刃(ホーリーブレード)』」


アレクの持つ無骨な鋼の剣がまばゆい光のオーラを纏う。


「これは……!力が、(みなぎ)ってくる……!」

「当たり前でしょ。わたくしの最高級バフよ。追加料金取りたいくらいなんだから。さあ、行ってらっしゃい、私の騎士。ちゃっちゃと終わらせて、今日こそ定時で帰りましょう!」


いつものぐうたらな口調で、しかし絶対的な信頼を込めて私は微笑んだ。


アレクは力強く頷くと、光り輝く剣を構え、魔狼へと猛然と躍りかかった。


ガギンッ!と激しい金属音が響く。

アレクの剣は魔狼の瘴気の鎧をたやすく切り裂き、その動きは目で追うのがやっとなほどに加速している。


「すごい……これが聖女様の力……!」

「よそ見してる暇あるの!?敵のヘイト管理、ちゃんとしてよね、タンク役!」

「タンク……ヘイト……?」


不思議そうなアレクの声は無視して、私は次の詠唱に入る。


「『守護の障壁(エンジェルズウィング)』!」


アレクの周囲に光のドームが出現し、魔狼の鋭い爪による反撃を寸前で弾いた。


前衛で敵の攻撃を引きつけ、着実にダメージを与えるアレク。

後方からバフと回復、防御支援を完璧にこなす私。


それはまるで前世でやりこんだオンラインゲームのボス戦のように、完璧な連携だった。


「これで、終わりだァァッ!!」


アレクの渾身の一撃が光の軌跡を描きながら魔狼の心臓部を貫く。魔獣は断末魔の叫びを上げ、光の粒子となって消滅した。



「……見事だ。実に、素晴らしい」


漆黒の男は感心したように手を叩いた。


「今日のところは、これにて失礼しよう。だが、覚えておくといい。これはこれから始まる壮大な戯曲の、ほんの序章にすぎない、とね」


そう言い残すと男は影の中に溶けるようにして姿を消した。


後に残されたのは浄化された泉と、安堵する私たち、そして遠くから聞こえてくる街の人々の歓声だけ。


「やりましたね、聖女様!」


アレクが興奮した様子で振り返る。

私は完璧な聖女スマイルを顔に貼り付け、優雅に頷いた。


「ええ。これも神のご加護と、あなたの勇気のおかげですわ、アレク」


人々が駆け寄り、私とアレクに惜しみない感謝と賞賛の言葉を浴びせる。


ああ、面倒くさい。

握手とかやめてほしい。服が汚れる。


しかし、私の内心はそれどころではなかった。


(……どうしよう。完全に厄介な長期プロジェクトに巻き込まれた。あの黒幕、絶対また出てくるタイプじゃない。ああ……私の平穏な引きこもり生活が、どんどん遠のいていく……!)


空は青く、水は輝き、人々は笑っている。

世界は確かに救われた。


だが、私の心はどしゃぶりの雨模様だった。


ふと、隣に立ったアレクがひざまずき、私の手を取った。


「エリシア様。俺は今日、貴方様の本当の偉大さを知りました。この命、改めて貴方に捧げましょう。この世界の闇を、必ずや共に打ち払わんことを」


その真っ直ぐな瞳に見つめられて、私は一つ、大きなため息をついた。


「……帰りましょう、アレク」

「え?」

「帰って、今後の業務計画を練り直さないと。こんな想定外のトラブルが続くようじゃ、わたくしのライフプランが破綻してしまうわ」


私の言葉の意味が分からず、きょとんとする忠実な騎士。


その顔を見ながら、私は心に誓う。


打倒、黒幕。打倒、世界の危機。


すべては一日も早くこのクソ面倒な巡礼(という名の出張)を終わらせ、愛する我が家(聖域の自室)で心ゆくまでぐうたらするために!

 

(明日は絶対、有給取ってやる……)


そんなことを考えながら私は再び完璧な聖女の微笑を浮かべ、民衆の歓声に応えるのだった。






お読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

よろしければ他にも書いているので見にきてくださいね。

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