9.アキの記憶
41.アキの記憶
ユズの映像が流れる文化祭の展示室には、ざわざわとした空気と、誰も声を出せない沈黙が共存していた。
三分にも満たない短編動画。スピーカーからは、雨音と電車の通過音、それに混じる微かな子どもの笑い声。
どこかの団地の非常階段を上がっていく足音。やがて画面には、うっすらとピントの外れた、二人の少女の背中。
「……これ、知ってる」
アキは、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
目の前のユズの映像は、過去の断片だった。いや、“記憶の隙間”そのものだった。
かつて自分が暮らしていた集合住宅。
手すりに布団が干されていたのも、階段のペンキがところどころ剥がれていたのも、すべてが“アキの中”にあった。
そして、あの背中。
あの時、小さな声で名前を呼ばれたことがある。
まるで祈るように、何度も名前を繰り返されて――でも、それはアキ自身が封じた声だった。
「……ひより、じゃないよね?」
名前を口にしたとき、自分が泣いていたことに気づいた。
ひより。
かつて一緒に暮らしていた姉のような存在。
本当の姉ではなかったけれど、アキが唯一「この人の隣にいたい」と願った子だった。
親の離婚で施設に預けられたあと、二人は別々の里親に引き取られた。
いつか再会できると信じていたけど、それきりだった。
そして今、何の予告もなく、あの背中が目の前に現れた。
まるで、アキの心が呼んだかのように。
「ねえ、これ……どこで撮ったの?」
展示の終わったあと、ユズに問いかけると、彼女は一瞬だけ息を止めた。
「……三年前。たぶん、児童相談所の近く。団地の裏通りで見かけたの。あの子たち、ずっと手をつないでて」
アキは、声にならないまま、ただうなずいた。
たった数十秒の映像。
でも、それは彼女の記憶に空いた穴をつなぐ糸だった。
あの子は、今もどこかで生きているかもしれない。
過去はなくならない。見えなくなっていただけなんだ。
42.ユズの映像日記:その子たちは、名もなく
最初にその子たちを見かけたのは、たまたまだった。
雨上がりの午後、団地の裏を歩いていると、非常階段の下で、二人の少女が手をつないで座っていた。
歳は――八つか九つ。
体に合わない大人のジャンパーを羽織っていた子と、ピンクのスウェットのフードをかぶった子。
何かを待っているような、でも諦めているような。
じっとして動かない姿が、逆に不気味なくらい静かだった。
ユズは、スマホの録画ボタンを押していた。
シャッター音は切ってある。誰にも気づかれず、ただ数十秒だけ、彼女たちの背中を残した。
自分でも、なぜ撮ったのかわからなかった。
でも、家に帰って編集しようとすると、手が止まった。
その映像の中に、自分の小さいころの影が混じっているような気がしたからだ。
「ずっと、誰かの背中を見てた気がするんだよね……」
誰に言うわけでもなく、そうつぶやいた。
映像のノイズに紛れるように、小さな笑い声が重なっていく。
あれは、本当にあの子たちの声だったのか、それとも自分の記憶なのか。
文化祭の展示が始まる数日前、ユズは動画の最後に字幕を一行だけつけた。
「その子たちは、まだここにいる。」
それがどういう意味なのか、自分でも説明できなかった。
でも、上映の日、アキが泣いたときに、すべてが繋がった気がした。
たぶん、自分は記憶を撮ってたんじゃない。
“まだここにある痛み”を、誰かに届けたかったんだ。
それが言葉じゃなかったから、映像になっただけで。
アキは、それを受け取った。
ユズはそれを見て、自分の存在が少しだけ許された気がした。
「届けたら、誰かが応えてくれるんだな」
そう思った瞬間、ユズの心の奥で、なにかがほどけた。
43.教師の午後:教室の外にあるもの
文化祭の会場は、ほとんどが飾りつけとにぎやかな出し物で満ちていた。
教師として巡回しているふりをしながら、彼――杉浦は、展示の一角で足を止めた。
「映像作品か……」
部屋の片隅に置かれた小さなスクリーン。
画面に映っているのは、どこにでもある団地。
ピントの甘い手ぶれ映像と、環境音だけの静かな作品。
だが、杉浦は動けなくなった。
そこに映っていた“背中”に、見覚えがあったからだ。
いや、見覚えというより、“思い出した”のだ。
彼がかつて担任していた、支援学級の少女。
名前は、たしか日和。
多弁だったが、内容は支離滅裂で、家庭に複雑な事情があると聞いていた。
突然学校に来なくなったのは、七年前。児童相談所の引き取りだった。
その背中によく似た輪郭。
あれから、どうなったのかは知る由もない。
でも、今、こうして映像の中で彼女らしき姿を見ると、胸の奥に古傷のような痛みが滲んでくる。
杉浦は、職員室でも浮いた存在だった。
生徒の問題に深入りしすぎると煙たがられ、やがて冷めた目線で仕事をするようになっていた。
だが――この映像の前では、そんな仮面は剥がれていた。
映像の最後、「その子たちは、まだここにいる」という字幕。
まだ、ここにいる。
そうかもしれない。
この教室の中に、廊下に、隣の席に、誰にも見つけられずに“まだいる”子がいるのかもしれない。
「――見えないものに、目を向けろってか……生意気な生徒だな」
でも、その目には、確かな敬意と希望の色が宿っていた。
展示室を出た杉浦は、教務主任に呼び止められた。
「杉浦先生。あの、保健室にいる子、また手首を……」
「ああ、すぐ行く」
教師として、どこまで踏み込んでいいのかは、今もわからない。
だが、映像に背中を押された今なら、もう少しだけ、目を逸らさずに向き合える気がした。
44.杉浦の記憶:届かなかった手紙
もう十年以上も前の話だ。
彼がまだ若く、熱意に燃えていた頃――赴任初年度の春。
担任を持ったクラスに、気になる子がいた。
真下千尋。
小柄で、声も小さくて、けれど作文には驚くような深い表現があった。
放課後にひとり残って黒板を見つめている姿が、なぜか胸を締めつけた。
何かある。そう直感した。
ある日、彼女は杉浦に「お手紙を書いてもいいですか」と言った。
「先生は、怒らない人だと思うから」
彼は、もちろんだと答えた。
それから数日後、彼女は学校に来なくなった。
家庭での虐待が発覚したのは、その翌週。
通報は、別の保護者からだった。
彼が手紙を受け取ることは、とうとうなかった。
彼女は施設に保護され、転校。
その後、どこでどうなったのかは分からない。
それから杉浦は、少しずつ“見ないふり”を覚えた。
疑わしいサインがあっても、確信がなければ言葉を飲み込んだ。
学校という制度の中で、教師の立場でできることの限界――
それが彼にとって、逃げ道であり、自己防衛だった。
でも。
それでも彼は、なぜ教師を辞めなかったのか。
たった一つだけ、理由がある。
「誰かが、あの時の俺みたいに、何かに気づいてくれるかもしれない。
それを止めたくないんだ」
そんな希望を、薄氷の上に置くように胸の奥にしまっていた。
そして今、ユズの映像が、その氷に小さなひびを入れた。
届かなかった“手紙”が、画面越しにようやく届いた気がした。
杉浦は、思った。
「次こそは、届かせたい」
45.なつみ:割れた鏡のなかの声
展示室のすみっこ。
人混みが苦手ななつみは、昼休みの時間を狙ってその部屋に入った。
薄暗くて静か。
廊下の喧騒から切り離されたような、ほっとする空気。
映像がぽつんと再生されていた。
画面には、誰かの生活のかけら。
ぼやけた団地のベランダ、埃っぽい風の音、遠くで鳴く犬。
言葉はない。字幕すら、ほとんど出てこない。
なのに、なつみの中に、まるで自分の心の声みたいに響いた。
「…ここに、いたんだ」
誰かの生活。
誰かの孤独。
誰かの“無言の助けて”が、そこには映っていた。
まるで鏡だった。
自分が毎晩、机の下でこっそり泣いてる姿が映ってる気がした。
誰にも見られたくないのに、誰かに見てほしかった。
涙が、ふっとこぼれた。
それを指で拭う前に、後ろから声がした。
「…あの映像、すごいよね。あれ、ユズが撮ったやつだよ」
声の主はアキだった。
なつみは、少しだけ肩を強張らせた。でも、目は逸らさなかった。
「……知ってるの?あの人」
「うん。少しだけ。でも…なんか、わかるんだ。あれって、"自分のこと"だよね」
なつみは、頷いた。
なにも説明しなくていい、という感じが嬉しかった。
いつもは、ぜんぶ言葉にしなきゃいけなかった。
苦しい理由も、食べられない理由も、腕の傷も――。
でも今は、ただそこにいるだけで、誰かがわかってくれている気がした。
展示室を出ると、外はまぶしかった。
文化祭のざわめきの中で、なつみは少しだけまっすぐ歩ける気がした。
手のひらを見た。
昨日も切ってしまった小さな線が、まだ赤い。
だけど今日は――
少しだけ、もう少しだけ、生きていたいと思った。