7.勇治/演出家の遺言
31.「勇治/演出家の遺言」
彼女たちが現れたとき、
勇治の胸には、ある種の達成感があった。
完璧だった。
この廃ビル、この部屋、光の入り方、埃の舞い方、三人の表情。
まるで全てが、脚本通りに動いているようだった。
「やぁ、来てくれたんだね。三人とも」
言葉を選んで口に出すとき、
彼の中では、観客の拍手が聞こえた気がした。
演出家としての自分に酔っていた。
そう、ほんの数分前までは。
だが――
ユズの視線が鋭く刺さったとき、
なつみが胸元の名札を誇らしげに見せたとき、
アキが震える声で「ここにいる」と名乗ったとき。
“観客だったはずの三人が、舞台に立ってしまった”。
彼の脚本は、もう意味をなさない。
自分のセリフも、照明の演出も、
彼女たちの生きた言葉に塗り潰されていく。
勇治は、笑いそうになった。
「そうか……これは、俺の“退場の幕”なんだな」
勇治には、どうしても伝えたいことがあった。
彼が「少女たちに与えたもの」は、傷だけじゃない。
名前、居場所、意味、そして美しさ。
だがそれが、彼の一方的な幻想だったことに、
この瞬間、ようやく気づいた。
「俺は、ただ“君たちを記録したかった”だけなんだよ」
「生きているのに、死にかけてる。そんな儚い瞬間が、いちばん美しいと思った」
「君たちの苦しみが、“芸術”に見えたんだ。だけど……間違ってた」
勇治の声は、はじめて震えた。
「俺は、“死にたくない”って目をしてる君たちを、
“死んでるふり”だと思ってた。
本当は、生きたかったんだよな。君たち」
静かに、ユズが近づく。
手に持った写真――
あの日の、切り取られたユズの泣き顔。
「これを焼こう。あなたが“所有者”じゃない」
なつみも、名札をそっと外して差し出す。
「これはもう“あんたの作品”じゃない。返してもらう」
アキは何も言わず、ただ立っていた。
でも、その瞳は強くて、まっすぐだった。
勇治は膝をつき、頭を下げた。
「君たちに奪ったものを、返せるなら返したい」
それが謝罪かどうかも、もう分からない。
ただ、彼女たちの“再演”が、もう自分には演出できないとだけは、はっきり分かった。
部屋の照明が切れる。
窓の外、朝日が差し込んでいた。
三人は振り返らずに、歩き出す。
舞台は終わった。
だが、物語は始まったばかりだ。
32.「再演のあと/なつみ」
コンビニの窓に映る自分の姿が、ほんの少しだけ他人に見えた。
制服の胸元につけていた名札は、もうない。
「なつみ」って誰かにわかってほしかったのに、
いまは、誰にもわからなくてもいいと思える。
(……本当は、わかってほしいけど)
言葉にすれば壊れてしまいそうで、
レジに向かって小さく頭を下げるだけだった。
マンションのエレベーターに乗ると、
扉の前でまたあの子に会った。
アキ。
前より少しだけ背筋が伸びていた。
目が合うと、気まずそうに視線を逸らしたけど、
なつみは声を出してみた。
「……あのさ、今日さ、図書室、寄ってみない?」
33.「アキ/返事」
その言葉が、
耳の奥でやけに大きく響いた。
図書室?
学校の、あの……あの静かな場所?
前は逃げ込むようにいたけど、最近は行ってない。
声を出す前に、うなずいていた。
なぜか涙が出そうだったから、少しだけ前を向いて歩いた。
棚の奥の、古い本のページをめくる音。
なつみが、そっと本を差し出す。
「この本、昔好きだった。食べられない女の子が出てくる話」
アキは目を見開いた。
それは、まるで自分のことのようだった。
ページの間に、何かが挟まっていた。
古い栞。鉛筆で「がんばれ」って書いてある。
「これ、あたしが書いたかも。忘れてた」
二人とも、笑ってしまった。
34.「ユズ/風の音」
坂の上の団地のベンチに、ユズはひとりでいた。
紙の写真に火をつけて、風に舞わせた。
(あんたの“作品”は、もう消えた)
けど、それだけじゃ足りなかった。
誰かに「名前を呼ばれる」ことの意味。
誰かの記憶に「いる」ことの重さ。
スマホを開いて、なつみからのメッセージを見る。
「あの時のこと、少しずつ話せるかも」
返事はすぐに打たなかった。
でも、ユズの口が、かすかに動いた。
「ありがとう。……今度、会おう」
小さな風が吹いて、紙の灰が空に昇った。
変わったのは世界じゃない。
ほんの少し、自分の“輪郭”が戻っただけだった。
でも、それでいい。
それが、生きるってことなんだと思う。
35.「欠けたページ/なつみ」
教室の隅で、なつみは一冊のノートを開いた。
カバーはボロボロで、表紙には何も書かれていない。
だけどその中には、彼女が書き残してきた――いや、書きかけてやめてしまった「自分の物語」があった。
摂食障害の記録、リスカの跡、OD未遂。
それを「自分のこと」だと認めるのには、時間がかかった。
「だけど、私が書かなきゃ、誰も知らないままだ」
そんな気持ちになったのは、アキとユズと出会ったからだった。