6.廃ビルの礼拝堂
26.「廃ビルの礼拝堂」
歌舞伎町の路地裏。
昼でも薄暗いその場所に、今はもう使われていないビルがある。
看板も落ち、ガラスも割れ、
唯一、金属の扉だけがやけに新しく見える。
ユズが鍵を持っていた。
「……昔、勇治に渡されたの。
“困ったらここに逃げろ”って」
それが、罠だったのか、本当の避難所だったのかはわからない。
三人は階段を上る。
古い鉄骨は音を立て、埃が舞った。
4階。
その一室の扉が、静かに開く。
中は意外なほど整っていた。
がらんとした部屋の中央に、小さな祭壇のようなものがある。
壁には無数のポラロイド写真。
そこに写るのは、
アキの、なつみの、ユズの――無防備な顔、泣き顔、笑顔、そして傷。
「これは……」
なつみが写真に手を伸ばす。
その指が震える。
アキは、片隅の机に置かれたノートを開く。
それはまるで礼拝録のようだった。
“6月4日 なつみ 祈り=傷口は左腕に。深さ4mm。今日は涙が少なかった。”
“7月10日 ユズ 祈り=口元に笑み。あの子はまだ、自分の価値に気づいていない。”
“8月28日 アキ 祈り=声が震えていた。だが、その震えが一番美しい。”
「祈り……?」
ユズが吐き捨てるように言った。
「これ、“観察”じゃない。
信仰だよ。勇治は、私たちを“信者”にしてた。
しかも、本人に自覚させずに」
そのとき、祭壇の奥から風が吹いた。
換気扇もないはずなのに、冷たい風。
一枚の紙が舞い上がる。
それは、三人の名前が並んだリストだった。
その下に、ひとつだけ赤く書かれていた言葉。
「回収日:近日中」
「……逃げられない」
アキの声が低く響く。
「私たち、まだ“解放”されてなかったんだ」
なつみが顔を上げる。
「違う。これは“儀式”よ。
勇治は、自分が神だと思ってる。
その“神の教会”が、ここなのよ」
三人は視線を交わす。
それぞれに痛みを抱えながらも、ここまで来た。
ならば、今度こそ終わらせる。
勇治の“物語”から、抜け出すために。
そして、部屋の奥。
鍵のかかったロッカーの中には、
まだ開かれていない白い封筒が、三通並んでいた。
封を切るのは――
次の夜。
27.「封筒の中身」
夜、廃ビルから持ち帰った白い封筒を、三人はそれぞれ自分の部屋で開いた。
場所は違えど、時刻は同じ――午前0時。
中には、1枚の写真と、短い手紙が入っていた。
アキの封筒には、
かつて入院していた精神科病棟のベッドで、目を伏せて眠る彼女の写真。
手紙には、こう書かれていた。
「声を失った日が、君の美しさの始まりだった。
あの沈黙は、永遠に残すべきだった」
なつみの封筒には、
雨の夜に橋の欄干に立つ彼女の姿。
その手を引いているのは、勇治。
手紙には。
「あの夜、もし僕が手を離していたら――
君は救われていたかもしれない。
でもそれは、君が“消える”という意味だったよね?」
ユズの封筒には、
ライブ配信中、誰かに“本気の笑顔”を見せる瞬間の横顔。
手紙には。
「その笑顔は“演技”だったかもしれないけど、
僕にとっては“祈り”だった。
本当に笑う君が、いつか見たかった」
三人は、しばらくその紙を見つめていた。
燃やすことも、破くこともできず。
それはただの“言葉”ではなかった。
傷を知り尽くした者だけが書ける手紙だったから。
翌日。三人は再び集まった。
言葉少なに封筒の内容を共有し、
やがて、ユズが言った。
「勇治は、“終わり方”を選ばせようとしてる。
そのために、もう一度私たちに“揺らぎ”を与えてる」
なつみが続ける。
「記憶を揺らして、“依存”を再構築する。
私たちはまだ、完全に抜け出してない……
でも今なら、気づける」
アキは、静かに頷いた。
「だったら――
あの場所に戻るしかない。
勇治が、“次”を仕掛けてくる前に」
三人は決意する。
勇治と決着をつけるため、再び**“観測者”が作った舞台**へ戻る。
だがその夜。
ユズの部屋の窓に、何者かの影が映る。
――ノック音。
静かに、規則正しく。
ユズがカーテンを開けると、
外には誰もいなかった。
ただ――
写真が、ひとつ貼り付けられていた。
三人が並んで歩いている、ほんの数時間前の写真。
その背後に、コートの男が立っていた。
勇治。
物語は、次の章へ。
「回収日」――それは再会か、裁きか。
承知しました。
それでは、なつみの視点で物語を進めます。
「回収日」を前に、彼女の過去と現在が交差しはじめる章です。
28.「なつみ/夜を越える練習」
夜。
なつみは、携帯を握りしめたままベッドに横たわっていた。
「あと数時間で、また朝が来る」
そう思うたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
ユズから送られてきた写真――
三人の背後に立つ男の影を見たとき、
なつみの脳裏に、遠い過去の**“足音”**が蘇った。
彼女が勇治と出会ったのは、14歳の夏。
学校を“自主的に休学”していた頃だった。
実家に居場所がなく、リストカットを繰り返していた。
「死にたいわけじゃない。血が出てると、生きてるって思えるの」
そう言った時、勇治は笑ってこう答えた。
「じゃあ、“もっと綺麗に”切ってあげるよ」
その日、初めて道具を渡された。
医療用の消毒液。
真新しいカミソリ。
そして――“自傷記録ノート”。
なつみは、あのノートをまだ捨てられずにいた。
久々に引き出しの奥から取り出すと、
表紙には勇治の手書きの文字。
「記録することで、痛みは“物語”になる。
物語になれば、苦しみは意味を持つ」
なつみは、それを信じていた。
痛みが意味を持つなら、私は無駄に苦しんでるんじゃないって思えるから。
だが今、ユズやアキと出会い、再び歩き出した今になってようやく思う。
あれは、意味じゃなくて呪いだった。
自分の傷を“作品”にされていたことに気づくのが、遅すぎた。
午前3時。
眠れぬままのなつみは、ノートの最後のページに書き込んだ。
「これは私の祈りじゃない。
あんたが私に書かせた“嘘の経典”。
でも今度は私が書く。
この痛みの続きは、私の言葉で書く」
そして朝。
なつみは街へ出る。
制服のように見える、黒のワンピース。
髪は整えて、目元には薄くメイク。
かつて勇治と出会った、あの橋の上に立つ。
今回は、誰も迎えに来させない。
私は、自分で“次の物語”に行く。
そう思ったとき、スマホが震える。
「ユズから……?」
画面に表示されたのは、ただ一言。
『彼が動いた。今夜、例の場所で』
なつみはゆっくりと歩き出す。
ユズと、アキと、勇治の終点へ。
夜の都市が、またひとつの“舞台”になる。
了解です。
ではまず、なつみの視点でさらに一歩深く掘り下げて描きます。
29.「なつみ/名前を取り戻す日」
街はまだ眠っている。
ビルの谷間に朝焼けが滲み、ゴミ収集車の音が遠くで鳴っている。
なつみはその音を聞きながら、小さくつぶやいた。
「今日は“回収日”……か」
誰かが決めたスケジュール。
だけど今回は、自分で決めるつもりだった。
終わらせるのか、取り戻すのか――それは私の選択だ。
向かう先は、あの廃ビル。
ユズとアキと再会し、勇治の“舞台”が再演される場所。
でも、なつみは一人で先に行くことを選んだ。
“あのときと同じ失敗はしない”
誰かに導かれるんじゃない。
自分で、踏み込む。
廃ビルの入り口には、すでに扉が開いていた。
中に足を踏み入れたとき――
視界に、“あの部屋”が現れる。
壁一面に貼られたポラロイド写真。
ナイフの形に切り抜かれたノートの断片。
そして、その中央に置かれたなつみの“名札”。
学校で使っていた、昔の本名が刻まれていた。
「林田菜摘」
彼女は震える手で、その名札を取り上げた。
その名前は、勇治の手で奪われたものだった。
彼は言った。
「この名前はもう使えない。新しい名前をあげよう。
“なつみ”は、僕が創った君だよ」
そのときから、彼女は「林田菜摘」を捨てていた。
名前も、過去も、自尊心も。
だが今、その名札は彼女の手の中にある。
まるで「取り戻す準備ができたね」と言われているようだった。
なつみは息を吸い込み、名札を自分の胸に留めた。
服の上から、真っ直ぐに、ピンで。
そして、振り返る。
ドアの外に、ユズとアキの姿。
三人の目が合い、無言のうちに理解が交わされる。
なつみが小さく笑った。
「遅いよ。待ってた」
アキが微笑み返す。
「ごめん。でも、“間に合いたかった”」
ユズが一歩前に出て言った。
「終わらせよう、“創られた私たち”を」
ありがとうございます。
では続けて、アキの視点から物語を描きます。
なつみとユズと共に「再演の部屋」に向かう直前、彼女の内面で何が揺れていたのか。
30.「アキ/声にならなかった叫び」
アキは走っていた。
なつみからのメッセージを見たとき、心臓が一度止まりかけた。
怖かったのは、勇治じゃない。
**“また置いていかれる”**ことだった。
彼女はずっと、自分だけが選ばれなかった気がしていた。
勇治に声をかけられたのは、確かに最初だった。
でも、そのあと何かが壊れて、彼の興味はユズやなつみに移った。
それが理由じゃない、と思いたい。
でも。
アキは、一度も「主役」になれなかった。
彼女の中には、いつからか声が住み着いていた。
いつも耳元で囁く。
「あなたは、代わりなんだよ」
「あの子がいなければ、あなたが選ばれたかもしれない」
「結局、みんなの“つなぎ”」
その声を打ち消すように、アキは体を傷つけた。
オーバードーズ、絶食、自傷。
生きている感覚がほしかった。
だけど皮肉なことに――
「あ、君のリストカット、綺麗だね。写真撮らせて」
勇治は、そこにだけ反応した。
アキの“痛み”は、彼にとって芸術の素材だった。
それでもアキは、今、なつみのメッセージに間に合わせた。
自分の足でここに来た。
何も演出されていない、素の自分で。
部屋に入る直前、アキは二人の背中を見つめた。
ユズの背中は、何かを背負いすぎていて。
なつみの背中は、ようやく取り戻した“名”で、少しだけまっすぐになっていた。
アキは、自分の声がまだ震えているのを感じながら、言葉にした。
「私も……ここにいるって、言いたいんだ」
ユズが振り返って、まっすぐに見つめ返す。
「アキ、君がいなかったら、ここまで来れなかった」
それは救いだった。
アキにとって、それは“選ばれた”よりも大事な言葉だった。
部屋の扉が開く。
中から、勇治の声が聞こえてくる。
「やぁ、来てくれたんだね。三人とも」
アキは立ち止まらなかった。
声に怯えず、一歩ずつ進んだ。
今度は、自分の足で歩いて、
自分の声で叫ぶために。