3.赤いページ
11.『赤いページ』
壊れたノートを見つけてから数日、
ナツミは、夢の中で“図形”が崩れる音を聞くようになった。
まるで、見てはいけないものを見てしまったような、
呼ばれているような――そんな違和感が、彼女を夜ごと包む。
アキは言った。
「赤いページに触ると、“呼ばれる”ことがあるの」
「でも、大丈夫。ナツミなら、壊れないと思う」
ナツミは、アキが初めて“怖がっている”のを感じた。
アキの目の奥に、消えない影が揺れていた。
放課後、ふたりは再び廃屋へ。
ナツミはそっと、赤い線が乱れたノートの一頁に指を這わせた。
ページの図形が、音もなく“浮かび上がった”。
気づくと、ふたりは夢の中のような空間にいた。
そこは、無数のノートが宙を舞う、真っ白な部屋。
その中心に、ひとりの少女が立っていた。
髪は乱れ、服は擦り切れ、目は空っぽだった。
アキが囁く。
「……あの子が、“前の前の子”。サナ」
サナはふたりに気づくと、ゆっくりと近づいてきた。
ナツミは本能的にわかった。
この子は、「ずっと言えなかった言葉」が多すぎて、
ついに“ノート”の中に閉じ込められてしまったのだ。
サナがふと、何かを差し出す。
それは、自分が書いた最後のページ。
そこには、円と円が重なる形――ヴェン図のような図形が描かれていた。
重なった部分には、こう書かれていた。
「誰かに伝わったら、わたしはここから出られる」
アキが囁く。
「……渡して。ナツミの“声”で」
ナツミは迷わず、サナの図形を自分のノートに書き写した。
すると、光が差し、ノートがゆっくり閉じていった。
サナの姿は、ふっと霧のように溶け、消えた。
そこに残ったのは、小さなキャンディ。
包み紙には、こう書かれていた。
「わたしの話を、聞いてくれてありがとう」
【モノローグ|ナツミ】
誰にも伝わらない気持ちは、
時に人を“この世界”から切り離してしまう。
でもアキちゃんと出会って、サナと出会って、
わたしは知った。
言葉にできなくても、
図形でも、夢でも、キャンディでもいい――
誰かに届けば、きっと、そこから帰ってこれる。
12.『夜を歩く子』
ナツミは、その子を最初に見たのは、商店街の古いゲーセン前だった。
金曜の夕方、人通りが減ったシャッター通りに、
誰にも話しかけず、タピオカのカップを持って立っていた少女。
茶色い髪、ブランド風のパーカー、でも足元は擦り切れたスニーカー。
全身が、どこにも“属していない”雰囲気を放っていた。
その子は、ナツミとすれ違いざま、ふいに笑った。
「ねえ、“ノート”持ってる?」
ナツミは答えられなかった。
でも、その一言で分かった。
この子も、どこか“こちら側の子”なのだと。
アキにそのことを話すと、アキの目が一瞬だけ鋭くなった。
「その子……名乗らなかった?」
「ううん。でも“ユズ”って自分でつぶやいてた。多分名前」
アキはしばらく黙って、それから白いノートの新しいページをナツミに渡した。
そこには、螺旋と点線が交差する奇妙な模様が描かれていた。
「それ、“出会い”と“嘘”の図形。気をつけてね、ナツミ」
次の夜、ナツミはユズと再び会った。
今度は、ファミレスの駐車場の奥、
壊れた自販機の脇でしゃがみ込んでいた。
「ノート、貸してよ」
ユズは、まるで友達のように言った。
「わたし、ぜんぶ消したいページがあるんだ」
ナツミは迷いながらも、そっと白紙の一枚を差し出した。
ユズはそれを受け取ると、口紅で大きく円を描き、その中にこう書いた。
「名前のない夜に、わたしを忘れて」
【モノローグ|ユズ】
あたしはずっと、“夜の役”だった。
誰かが幸せであるための“裏側”。
誰も見てないところで笑って、
誰にも知られないまま消える役。
でもあの子――ナツミは、
名前も聞かずに、“ノート”をくれた。
そんなの、反則だって。
その夜、ナツミの夢にユズが出てきた。
真っ黒な街、点滅するネオン。
その中で、ユズが小さくつぶやいた。
「ねえ、いつか、“夜”から出る方法ってあると思う?」
ナツミは、答えを知らなかった。
でも彼女は、小さな声でこう言った。
「……じゃあ、いっしょに探そうよ」
13.『灯りのないプリクラ』
それは、台風が近づいていた土曜の夜だった。
どこからともなく集まった三人は、廃墟同然のゲームセンターの奥――
もう誰も使わなくなったプリクラ機の前で、顔を合わせた。
ナツミは迷いながらも言った。
「……ねえ、今日だけ、友だちってことにしない?」
アキは少しだけ微笑んで頷いた。
ユズは鼻で笑って言った。
「期間限定、ね。そういうの、嫌いじゃないよ」
電気の切れたプリクラ機。
シャッターも音も鳴らず、ただ画面に三人の顔が映るだけ。
アキが小さくつぶやいた。
「……こういうの、初めて」
「プリクラ?」ナツミが訊いた。
「ううん、たぶん、“ちゃんと並んで写る”ってこと」
ユズはポケットから何かを取り出し、画面にペンで書いた。
「††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††††
ユズはポケットから黒の油性ペンを取り出すと、画面にゆっくり書いた。
「“ナツミ”、"アキ”、"ユズ”… “死ななかった記念日”。」
ナツミは声をひそめて笑った。「縁起悪っ」
「いいじゃん。こんな夜に、他に何か記念できることある?」
アキは目を伏せたまま、ふっと息を漏らした。
「……じゃあ、これが最初で最後ね」
「うん、絶対、または会わない」ユズが言った。
「うん、絶対」ナツミも繰り返した。
そう言いながら、三人はどこか安心していた。
絶対に、また会えない。だからこそ、今だけ信じられる。
目の前の他人を、“自分じゃない誰か”として。
そして――そのプリクラ機は、その夜を最後に完全に壊れた。
まるで三人の記憶だけを閉じ込めて、永遠に沈んだように。
翌朝。
ナツミは家に帰らず、最寄りの駅のベンチで夜を明かしていた。
アキはいつもの「鍵のない部屋」に戻り、扉を内側から静かに閉めた。
ユズは地下道の奥で目を閉じ、ヘッドホンを耳にかけたまま、夢の中に沈んだ。
三人は、それぞれの“出口のない夜”へと帰っていった。
もう二度と会うことはなかった――はずだった。
しかし、14話で現れるのは、
あの夜の「プリクラ」に写っていたはずの、
“もう一人の誰か”の影だった。
14.「画面の裏側」
あのプリクラ写真は、三人が誰とも知らぬ他人として、
一夜の共犯者になった証だった。
だが、現像されたシールの片隅に、かすかに写っていた“第四の輪郭”に、
誰も気づかなかった。まるで鏡の裏側から、誰かが覗いていたかのような…。
その“影”――本名を知られることのない少女は、カメラの裏にいた。
プリクラ機のメンテナンス用の小さな扉、
そこに潜り込んでいたのは、制服も着ていない、
名前のない、住民票のない少女だった。
彼女は「レンズの奥」を覗き見ながら、
三人の吐き出す言葉と沈黙を、耳元で味わっていた。
「この子たちは、まだ壊れてない」
「でも……壊れる日が近い音がする」
声を出すことのない少女の脳裏に、微笑が浮かんだ。
彼女は、言葉を喋れない。言葉の代わりに“記録”する。
壊れかけのポラロイドカメラを胸に抱え、
そのシャッターを、そっと押した。
“誰にも知られない”写真が、一枚、また一枚。
彼女の居場所は、「記録」と「忘却」の隙間。
プリクラの裏側、廃ビルの中、駅のシャッターの隙間。
誰も見ない方角にだけ現れる。
少女は死んだのか、生きているのか――誰もわからない。
ただ、記録は残る。
・アキが書き残した“死にたくなさ”
・ナツミのリストに刻まれた“数”
・ユズが手放した体重の“グラム”
彼女のポラロイドには、それが写っていた。
その日から、三人の周囲に、小さな変化が起こりはじめる。
ありえないはずの角度から撮られた写真、
押した覚えのない録音ボタン、
聞き覚えのない、だが自分の声。
それは、“もう一人の誰か”が見ていた記憶――
誰にも気づかれぬまま、三人の物語の底で、
ゆっくりと編まれていく“記録”。
15.「欠けたフレーム」
ユズはいつもと同じ場所にいた。
駅の地下道。寝袋代わりのボロ布と、100均で買ったヘッドホン。
だが、朝目覚めた時、彼女は異常に気づいた。
ポケットに、見覚えのないポラロイド写真が一枚――。
写っているのは自分。
いつ撮られたのか、全く記憶がない。
しかも、それは“夢”でしか知らないはずのシーンだった。
廃ビルの屋上で、彼女は泣いていた。
口元を覆い、しゃがみ込んで、誰にも見せたことのない「子どもの顔」で。
ユズはその写真を何度も見返した。
それは、誰かの記憶の中に入り込んでいたかのような、
不快なまでに親密なアングルだった。
「なんで、これ……知ってるの?」
声は誰にも届かない。
地下道には誰もいない。
だが、ゴミ箱の下から、かすかに聞こえた。
カシャ。
フィルムの巻き戻る音。
古い、懐かしい、使い捨てカメラのそれ。
ユズは、反射的に走り出した。
逃げ場などないのに、足が勝手に動く。
しかし、その逃げ場の先で、彼女は“もう一枚”を見つける。
プリクラ機の前――
写っているのは、あの夜の3人……のはずだった。
だが、そこには4人目がいた。
「誰?」
問いは空気に溶け、返事はなかった。
ただ、ポラロイドの端に、小さく赤いインクで記されていた。
《“ワタシ”ヲ消シテ。》
その夜から、ユズの周囲で、“夢”と“現実”の境界が曖昧になっていく。
ヘッドホンの中に、自分の声ではないモノローグが流れ、
スマホのカメラは、押してないのに、写真を撮りはじめる。
ユズは知る。
「記録されている」ということの意味を。
それが、「見られている」ではなく、「奪われている」感覚に変わっていく時、
人は壊れていくのだということを。